【「運」に満ちた世界で「責任」を問う】哲学者・古田徹也先生インタビュー【前編】

このインタビューへと至る「運」

 私たちの人生は「」に満ちています。

 福引で何が当たるか、テストで山を張ったところが的中してくれるかどうか。はたまた、どのような時代や環境に生まれ落ち、どのような人々と巡り合うか。どれもこれも、私たちにはコントロールできない「運」にほかなりません。

「親ガチャ」という言葉も、すっかり定着しました

 このことは一方で、現実の理不尽さを示しています。どんな善人でも、運悪く事故や災害に見まわれ、不幸な一生を歩むかもしれない。

 けれども他方で、偶然の出会いや縁は、人生に豊かな彩りを与えてくれたりもする。一切の「運」が存在しない人生は、それはそれで味気ないものではないでしょうか。 

 かくも愛すべき厄介な存在である「運」に、倫理思想史という視点で迫った著作があります。『不道徳的倫理学講義——人生にとって運とは何か』。著者は、本学の文学部に所属する、哲学者の古田徹也先生です。

 「運」にあふれるこの世界を、私たちはどのように生きていけばよいのか。今回は「責任」というキーワードを軸に、お話を伺ってきました。

 なぜ「責任」なのか。実はインタビュアーの私は、かつて先生の「運をめぐる倫理思想史」の授業に感銘を受け、「運」と「責任」の抜き差しならない関係について自分なりに考えるようになりました。そこから発想が膨らんで、『責任』という長編小説を刊行するという事態にまで発展。

 さらに遡ると、このUmeeT(に所属する友人)をモデルにした短篇小説で小説家デビューをしたという「縁」もあり……

期待の現役東大生ミステリ作家・浅野皓生さんに迫る【デビュー作のモデルはUmeeT!?】

記事:浅野皓生さんをミステリ作家に導く「運」【東大生作家】

 細く曲がりくねった「縁」の先に実現した、今回のインタビュー。

 「運」と「責任」をめぐる思考の旅を、ぜひ最後までお楽しみ下さい!

学生証
  1. お名前:古田徹也先生
  2. ご所属:東京大学大学院人文社会系研究科准教授
  3. ご専門:哲学・倫理学
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「地に足がついた問い」から

筆者:「運をめぐる倫理思想史」に興味を持ったきっかけは、どのようなものだったのでしょうか。

古田先生:一つは、自分個人の経験や意識に根ざして漠然と持っている問題意識みたいなものです。自分の来し方を振り返ってみると、よくこれで生き残ってきたなみたいな意識が強いんですよ。しかも今が正解かどうかは分からない。自分がこれまで歩んできた道のりを振り返った時の綱渡りという実感と、今現在の寄る辺なさという実感があって。

「生存者バイアス」ともちょっと違う、不安定な感覚

 その上で、文献との出会いがあった。直接的には、バーナード・ウィリアムズという倫理学者の「道徳的運(Moral Luck)」という論文。そういう文献に出会うことによって、「そっか、こういう問い方ができるのか」、「そもそもこれを問題にしていいんだ」と気づくことができた。

筆者:先生ご自身の実感が研究の起点になっているのですね。

古田先生:どの著作も、個人的な経験から始めないと自分で納得できない。「こういうことがあったんだけど、あれ何だったんだろう」みたいな。

 自分にとって地に足のついた問いじゃないと引っかからないいきなり大上段から問い得ないっていうんですかね。そこが、僕のある種の限界かもしれないですけど。

取材に携行した古田先生の著書

「書く」という発見と希望

筆者:「運をめぐる倫理思想史」の研究の中で、一番面白かったことは何でしょうか?

古田先生:一つは、実際に色んな哲学者が書いたものを読んでいくと、運をどう扱い、対処したらいいのかについて、ちゃんと苦労していて、その跡がよく見えてくるこれは要約を読んでると見えてこないものでじっくり読み込むことの面白さだと思います。

 あとはやっぱり、書いていくうちに見えてくるものがあって。そうじゃないと面白くないですよね。だから書く。小説とかも、自分は書いたことないですけどそうじゃないかなと思うんですよね。調べて読んで書いていくうちに、元々想定したようなものじゃない論点が浮かび上がってくる。萌芽的にはあったんだろうけど、自分でも見えていなかったものっていうのが出てくる。

筆者:書くことがどれぐらいお好きなのかということもお聞きしたいと思っているんですが、そういうところともつながっているんですかね。

古田先生:そうそう。好きかどうかと言われるとすごくアレで(笑)。すごい面倒くさいし、辛い時も多いですし。ただ、そういう経験があるので、書くことを信じられる好きというよりかは、書くことに対して希望を持っている。だから絶対自分で書きたい

筆者:自分も物書きの端くれとしては、他の人に書いてもらうなんて考えられません。書いている中で、必ず自分の予定からズレていく。それこそ『責任』も、自分の持っていなかった着地になりました。

「書くことは面倒くさいし、辛いことも多い」と笑う古田先生
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「責任」という虚構?

筆者:この辺りで、「責任」と「運」の関係について踏み込んでいければと思います。

 一般に、人が「責任」を負うのは、その人のコントロールが及ぶ範囲についてのみだという強力な直感があります。行為者に制御不可能な事柄、つまり「運」によって、「責任」の有無や大きさが変わるなんておかしいように思える。

当日使用した取材メモ

 でも、突き詰めて考えていくと雲行きが怪しい。例えば、どんな行為を選択するかは当人の人格に依存するところが大きいけれど、その人格は家庭の事情とか交友関係とか、色々な偶発的な事情によって形成されているはず。そうやって元を辿っていくと、当人のコントロールできないところに行き着いてしまう。

 この理屈を押し進めて、実は「責任」なんて虚構に過ぎないと主張するのが、小坂井敏晶先生の議論です。

近代は神を棄て、〈個人〉という未曽有の表象を生み出した。自由意志に導かれる主体の誕生だ。所与と行為を峻別し、家庭条件や遺伝形質という〈外部〉から切り離された、才能や人格という〈内部〉を根拠に自己責任を問う。だが、これは虚構だ。人間の一生は受精卵から始まる。才能も人格も本を正せば、親から受けた遺伝形質に、家庭・学校・地域条件などの社会影響が作用して形成される。我々は結局、外来要素の沈殿物だ。確かに偶然にも左右される。しかし偶然も外因だ。能力を遡及的に分析してゆけば、いつか原因は各自の内部に定位できなくなる。社会の影響は外来要素であり、心理は内発的だという常識は誤りだ。認知心理学や脳科学が示すように意志や意識は、蓄積された記憶と外来情報の相互作用を通して脳の物理・化学的メカニズムが生成する。外因をいくつ掛け合わせても、内因には変身しない。したがって自己責任の根拠は出てこない

小坂井敏晶『神の亡霊:近代という物語』2018, 160頁

筆者:実はこの文章、自分の東大入試の時の国語の試験問題で。解きながら面白いと思い、試験翌日に小坂井先生の本を買うと、そこに古田先生の『それは私がしたことなのか』が引用されていたんです。それが先生との出会いというのもあって、なおさら思い出深いのですが…

 それはともかく、小坂井先生は、私たちの人格とか行為は全て偶然つまり「運」の産物であるから、本当は自己責任なんかない、虚構だと突き放します。このような見解については、率直にどのように思われるのかなと。

古田先生:それこそ『それは私がしたことなのか』で書いたことですが、この種の見解は極端だと思うんですよね。ある種の警鐘としては大事なんだけど、肝心なのは、こんな風に割り切れない、スパッと切り分けられないっていうことだと思うんです。『不道徳的倫理学講義』での表現を使えば、「我々の人生とは、運の産物が不断に織り込まれた網の目にほかならない」ということ。網の目っていうのは、どこからどこまでが運の産物で、どこからどこまでが我々の自由な意思の産物であるのかっていうのは、切り分けられないっていうことです。そこが肝心であって、「あれかこれか」ではない。

「あれかこれか」ではない

筆者:多分、その切り分けられなさが、このザラザラな世界を生きる私たちの素朴な実感だとも思います。

古田先生:そうなんです。小坂井さんのこうした論述は、ある種、人間を楽にしてしまう現実の割り切れなさとか難しさから、あたかも降りることができるかのような、そういう言説になっていると思うんですね。でも降りてしまうと、無責任なことになってしまう。全部偶然とか全部必然とか言い切れるならいいんだけど、我々は現実に生きて、人と関係を結び、ある時には誰かを責めないといけないし、裁かないといけない、あるいは責めや裁きを受けないといけない。そういう時に、我々が実際に背負うものとか引き受けるものっていうのは、割り切れなさや切り分けられなさの中にある。そこで我々は悩んだり苦しんだりするわけです。だから、実際には降りられない場所から、あたかも降りられるかのように書かれているというのが、僕の不満ですね。

筆者:ただ、「ある種の警鐘」ともおっしゃいました。

古田先生:重要な警鐘だと思いますね。近代的な「自由意志を持って選択ができる自律的な責任主体」みたいなものは、建前として言われるほどは全く強靭じゃない、非常に脆弱なものです。このことは、法律を含めた社会制度を考える上で決して看過しちゃいけないものでしょう。

サッカーボール事件からAI裁判へ

筆者:法律という言葉が出てきましたが、自分が法学を専門としていることもあって、「責任」と「運」の関係について考えようとすると、サッカーボール事件(最判平成27年4月9日民集69巻3号455頁)が真っ先に思い浮かびます。

 校庭から転がり出てきたサッカーボールを避けようとして、バイクに乗っていた男性が転倒し死亡してしまった。その男性の遺族が、ボールを蹴った小学生の両親に対し、損害賠償を求めた事案です。最高裁は、「通常は人身に危険が及ぶものとはみられない行為によってたまたま人身に損害を生じさせた場合は、当該行為について具体的に予見可能であるなど特別の事情が認められない限り、子に対する監督義務を尽くしていなかったとすべきではない」などとして、高裁判決を覆し、両親の損害賠償責任を否定しました。この事件については、『それは私がしたことなのか』でも言及されていたと記憶しています。

割愛していますが、他にも色々な判決についてお話をお伺いしました

古田先生:『それは私がしたことなのか』の段階では高裁までで、その後に最高裁判決が出たんですよね。

 それこそ、切り分けられなさ、割り切れなさ、あるいは悩み深さっていうのが、よく出ている事例だと思います。予め明晰な基準を立てれば、その基準によってスパッと割り切って、「ここからは責任があります」って判断できる、というわけじゃない。そうやって切り分けて判断するっていうのはしばしば難しい。実際この事件も、判断が割れる中で、最高裁が決断をした。

 もちろん決断するっていうことは、その責任も取らなければいけない。だからこそ人が人を裁くっていうことの意味があるんだろうと思うんですよ。どこかで誰かが決断して落とし前をつけないといけないし、責めを負わないといけない、そして、責めを負えるのはやはり人間だけです

古田先生:しばしば、「人間の判断は不正確だし、情念や偏見によってブレたりもするから、裁判はAIにすべて委ねるべきじゃないか」とか、真面目に議論されたりしてるんですけど、そういう風に安易に考える人は、今言った点をよくよく考えてもらいたい。

筆者:AIが裁判官を務めるとなると、そういう責任の所在が見えなくなってくるっていうことなのでしょうか。

古田先生:究極的には、白黒つける確たる理由がないというケースは意外と多いと思うんです。その時にできることは決断しかないというケースです。どっちにでも振れる。それでも、「いや、これはこうするんだ」って決める、決めることによって形作っていく。そうしたら、その決定に対する責任を負ってほしいと思うし、そういう決定であるからこそ、納得できないまでも、どうにか飲み込むことができるんじゃないかなと思います

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前編のおわりに

先生ご自身が抱える「今現在の寄る辺なさ」という実感から出発したインタビューは、いつしか、人が人を裁くことの限界 / 意味へと繋がっていきました。

「運」に溢れた世界では、その人に「責任」があるのかどうか、必ずしも明確な線引きをすることができない。だからこそ決断が必要になる。そして、その決断の「責任」を引き受けることができるのもまた、人間だけなのではないか——

しかし、そこでいう「責任」とは何なのでしょうか? 

私たちは一体、「責任」という語を使って、何を語っているのでしょうか?

インタビュー後編では、「責任」という概念の沃野に、古田先生と迫ります。

(後編に続く)

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