【「責任」を切り分けず生きていく】哲学者・古田徹也先生インタビュー【後編】
2026.06.05
あさのこうせい 後編のはじめに
哲学者・古田徹也先生へのインタビュー。
前編では、古田先生が「運をめぐる倫理思想史」の研究に乗り出したきっかけから始まり、「運」と「責任」との微妙な関係、ひいては人が人を裁くことの意義にまで話が膨らんでいきました。
この後編のテーマは、ずばり「責任」そのもの。
そもそも「責任」とは何なのかという大問題に迫ります。

「責任」を解きほぐす「家族的類似性」
筆者:自分が『責任』という小説を書きながら痛感したのは、「責任」という同じ言葉のはずなのに、人によって、あるいはコンテクストによって、その意味するところが全然違う、しかし同時に、それぞれの意味合いの「責任」は、明らかに深く結びつき合ってもいるというところでした。この辺りは、どういうふうに解きほぐすのがいいのでしょうか。
古田先生:「責任」のように、我々の社会や生活にとって重要な概念っていうのは、大体、意味の多元性や雑多性を有している。そういう場合には、僕自身がウィトゲンシュタインをやってることもあり、「家族的類似性」の概念でアプローチします。

筆者:家族的類似性というのは、どういう意味なのでしょうか?
古田先生:共通の本質、つまり、シンプルな言葉でまとめられるような定義が見出されないような全体の連関と言えば良いでしょうか。
ウィトゲンシュタイン自身が出す例は「ゲーム」です。我々はゲームという言葉を色々な形で使って、その言葉を理解しながら生活してるはず。だけど、「じゃあゲームとは何か」と言われて、何かシンプルな定義を示してみると、大体、それに反するゲームの例が出てくるわけです。例えば、「ゲームとは誰かと誰か対戦するものだ」と言ったら、「じゃあソリティアはどうなんだ」となる。

つまり、「ゲーム」を貫く本質を見いだすことができないのに、我々は「ゲーム」って言葉をまさに使えているし、全体的な理解っていうのを持っている。じゃあ我々はどうやって理解してるかっていうと、部分的に重なり合いながらずれ合っている、緩やかな類似性のつながりを全体として見渡すことにおいて把握しているわけです。
筆者:本質に基づかない類似性ということですね。そうした家族的類似性というアプローチを、「責任」にも適用していくということでしょうか。
古田先生:そうそう。「責任」っていう言葉だけじっと凝視するんじゃなくて、「責任」という言葉ないし概念の使われ方をよく見る。具体的には、たとえばコロケーションで考えていくということといったことです。「責任を取る」、「責任を感じる」、「責任を果たす」という単位で考えて、それぞれの重なり合うところと、ずれ合うところをよく観察する。
だけど、同時に大事なのは切り分けないこと。「責任」にはA、B、Cという意味があって、それぞれ違うものですっていう風に切りわけて済ませないということですね。同じことは「責任」と「罪」を比較したり、日本語の「責任」と英語の「responsibility」を比較したりするときにも言える。差異をよく見ると同時に関連性を見ることが大事なわけです。

辞書を「読む」
筆者:少し話はズレますが、だとすると、言葉の意味を切り分けて、字義ごとに記載しなければいけない辞書というのは、ある種の難しさを持っているということなのでしょうか。
古田先生:いや、むしろ辞書は、それぞれの字義を見て、全体を見渡すためものだと思うんです。字義というのは、それぞれ全く違うことを言っているわけじゃないので。

筆者:つまり辞書というのは、1, 2, 3…と字義が区切られて書かれているけど、それは必ずしも切り分けられてるってわけではない、ということでしょうか?
古田先生:そう。ライトの当て方の違いっていうんですかね。「これが本質だ」みたいなシンプルな理解から逃れさせてくれるところがあるというか。
筆者:小学校の時を思い返すと、辞書を引いては、「この言葉はこういう意味だ」というふうに、いわば1対1対応で勉強していたので、何だか新鮮です。
古田先生:むしろ辞書を読むことの大きな意義は、一つの言葉の奥行きや広がり、つまり立体性を把握することにある。だから、いくつもある字義を比較して見渡せるってところがいいと思うんですね。
ただ、語釈があまりにも詳しすぎると見渡しづらくなるところもあって、例えば大辞典は、結構理解した後により味わえるものって感じがしますね。だから辞書って小辞典、中辞典、大辞典とか、色んな段階があるんだと思います。

「責任を果たす」とは何か
筆者:自分はずっと、「責任を果たす」とは何か、「責任を果たす」ことの終わりは何かというのが気になっています。先生の著書の『謝罪論』では、謝罪の終わりとは何なのかを考えてみると、実は難しいという議論がありましたが、それは「責任を果たす」ことについても同じではないかと。
古田先生:典型的には役割を終える時ですよね。「社長としての責任を果たした」とか「これで親としての責任を果たしたことになるのかな」とかっていうのも、終わって初めて言える。その役割を継続しつつ責任を果たすっていうのは、ある意味ではできない。「責任」に「果たす」がくっつく時には、ある役割を担い、その責任を全うするという意味合いが強くなるってことなのかなぁ。
筆者:この点、個人的に面白いなと思っているのは、法的責任については「責任を果たす」とは何なのかが非常に明確だということです。例えば、懲役5年になったとすると、とにかく刑務所で5年つとめればいい。こういう明快性が法的責任の特徴なのかなと。
古田先生:以前、藤井誠二さんというノンフィクション作家の方と、「贖罪」というテーマをめぐってお話しした時に出てきたのも、まさにそのポイントです。つまり、そうやって法的責任は区切れちゃう、割り切れちゃうから、刑期が終わったら、「自分は何かしら責任を果たした」と思ってしまう。だから、裁判の時とかには「一生償い続けます」とか「謝罪の手紙を出し続けます」とか言ってるんだけど、刑期を負えた時点で全部区切りをつけてしまう、ということがよくあるようです。それで本当に罪を償わなかったことになるのか、責任を果たしたことになるのかっていうようなことを、藤井さんは問われていました。そこはやっぱり法的責任とズレちゃうっていうか。5年つとめたっていう事実があって、そこで本人としては吹っ切れてしまい、全然反省していないってことも多々ある。

道徳的責任と「隣人であること」
筆者:その流れで言うと、法的責任がないときに、それでも何か燻って残るものに自分は興味を持っていて、だからこそ『責任』を書くことにもなったんですけど、その中で、道徳的責任って、いったい誰が課すんだろうとも疑問に思いました。
例えば、芸能人が不倫をしてSNSで叩くというときに、確かにその芸能人には道徳的責任はあるかもしれないけれど。それをワーって叩く人たちが、道徳的責任を追及する正当な主体であるとは思えない。じゃあ誰が、道徳的責任を問うんだろうと。
あるいは、本人が道徳的責任を覚える時は、とっても意義があると思うんですよね。「自分は人を殺してしまった。これは人の道に反している」みたいに自分を責める。だけど「人を殺したけど何にも思ってねえぜ」っていう人がいた時、法的責任を超えた道徳的責任を追及するなんてできないように思ってしまって。

古田先生:とりわけ近代的な道徳の概念は、万人に等しく適用されるものです。「人である以上、これは許されない」というね。でも、それは建前といえば建前です。自分のしたことについて、本当にひどいことをしてしまったと反省をしてほしい、苦しんでほしいと思うんだけど、本人は全然そういう素振りも見せない。そういうときに我々はその人をどう扱うべきなのかっていうのが、道徳って概念に関しては突きつけられる。
そうすると例えば、「あいつは悪魔だ」とか人間外的なものとして位置づけたりするし、あるいは「奴はまだ自分が何をしたか理解していない」っていう無知とか愚かさとか、そういう方向に行く。
これは共に生きる人間でありえるか、隣人でありえるかっていうところにも関わってくる話です。だからこそ道徳的理由による非難っていうのをあんまり振り回しちゃいけないんだろうなと。場合によっては、自分とその相手の関係を、結構抜き差しならないところに立たせることになる。この人間と一緒にこの世界に住めるかって話になるんだと思うんですが…

浅野:(長い沈黙の後)結論を出す場ではないということで。
古田先生:そうですね、はい(笑)
UmeeTへの期待
浅野:最後に、UmeeT、あるいはUmeeTのような学内メディアに、どういった活動を期待しているとかは、ありますでしょうか。
古田先生:敢えて東大生のステレオタイプを打破していこうとするんじゃなくて、東大が揶揄される原因になるようなものを自信を持って掘り下げていくのもいいんじゃないかな。そっちの方が多分、むしろステレオタイプを打破するってことになるんじゃないか。
あるステレオタイプに対して別のステレオタイプをぶつけて「違うんです」って言うのって単純に面白くないというか。色んな人がそれぞれのこだわりを持っているっていうのも、東大の大きな特徴だと思うので。そういうお互いの「オタク的」なところを、ある意味では尊重し合ってる、面白がってるっていうか、それを隠すべきだとは誰も思わないし、割と自然にそれをそれぞれが伸ばしてるっていう感じですかね。そういう情熱なりこだわりなりみたいなのを掘り下げるみたいな方が、読み物としても面白いと思います。
浅野:オチをつけるわけではないですが、まさにUmeeTの理念である、「この大学は、もっと面白い」というところとも響き合うように思います。
古田先生:ああ、うまく重なりましたね(笑)。
取材を終えて
「切れ目がない」、「切り分けられない」、「割り切れない」——取材の中で、何度も何度も出てきた言葉です。
私たちの行為や人生の、どこからどこまでが「運」によるもので、どこからどこまでが自由に選んだものなのか、決して切り分けることはできない。
それでも私たちは、「それはあなたがしたことだ」と誰かの「責任」を問わずには、「これは私がしてしまったことだ」と自分の「責任」を痛感せずには、生きていけない。そこから降りることも決してできない。
そんな私たちの在り方を映す鏡のように、「責任」という言葉には、緩やかに紐づき、分かちがたい意味の連なりが宿っている——インタビューを終えた自分の前に、ぼんやりと広がっていた景色が、この文章を書いているうちにようやく見えてきました。
「責任」を虚構として切り捨てるのではなく、むしろ、「責任」の割り切れなさをそのままに引き受けて、「運」の網の目の世界の中に留まり続けること。この複雑で気まぐれな世界を無理に割り切ろうとはせず、個別の物事を一つ一つ丁寧にまなざすこと。そんなしなやかな生きる姿勢を教えていただいた気がします。
古田先生、本当にありがとうございました!


不可説