前編では、東大卒指揮者・木許さんが、偉大なる指揮者・村方千之先生と知の巨人・立花隆先生の弟子として、いかに学び抜いてここまで来たか、お話しいただきました。
自分がやりたいと思ったことに正直に大学生活を捧げ、東大で他に誰一人進まない道を選択するまでの、驚くべき道のりが明かされました。
凄い。でもそんな生き方、私にできるだろうか…。
あなたもそう思いませんか?
後編では、その生き様に衝撃を受けた東大UmeeT取材陣が、木許さんにこそ聞きたい人生相談を始めます。
― 木許さんは指揮に対してもリサーチに対しても、全力を尽くして学んで来られましたよね。でも、物事に全力で取り組むって難しくないですか? 何をやっていても、どこかでつい手を抜いてしまっている気がするんです。
それは、物事に徹底的に取り組む師匠はじめ、職人気質のかっこいい大人たちと過ごした時間があるからですね。研究者になった友人たちからも強い影響を受けています。
「ここまでやるのか」と圧倒される経験をたくさんした。だから自分が物事に向かうときも、そこまでやって当たり前だという感覚になります。それが成功するか失敗するかはどうでもよくて、とにかく中途半端なものや自分でも納得できないものを世に送り出すことはダサい。というより、がんばるぞー!と気合いを入れて臨まなくても、気づいたら全力で取り組んでしまっているものと関わっていたい。
皆さんの場合、とことんやってしまうもの、やりたくなるもの、「これしかない」と直感的に思えるものにまだ出会っていないんじゃないかな?
― 「これしかない」とビビッと来たことは、確かにないかもしれません。どんな感覚なんですか?
みんながそうなのか分からないけど、論理を超えて身体が反応しちゃうものってないですか?たとえば衝動的に買ってしまうものとか。今これを得ないとだめだ、と論理を飛び越えてやってしまうものとか。
「カルメン」という物語ではカルメンがカシアの花をホセの額に投げつけるんですが、それを受けたホセは、最初なんとも思っていなかったカルメンのことが気になって気になって仕方なくなる。
あなたにとっての「カシアの花」、オブセッションのごとく頭から離れないものに出会えるといいですよね。
― 私はいろいろな活動に手を出してきました。それでも出会えていない。
私にハマれるものなんてないんじゃないか?と不安になったりします。
いつ出会えるかは人それぞれだけど、求めていなければ見つからないよ。とにかく求め続けること。
出会える確率を上げる方法はあると思う。たとえば効率やコスパなんて無視して、とにかく色々なことをやってみること。寄り道や回り道を恐れないこと。
最短距離のルートというのは、誰かが開拓したものであって、オリジナルなものではない。どんな回り道や寄り道をするか、その途中で「あなただけの」何かに出会えるかが重要なんじゃないかな。
大学の本来的な役割もそういうところにあるんじゃないでしょうか。寄り道や回り道を歓迎してくれる時間・空間として。
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― 東大で寄り道として指揮を学んで、結果それを職業にしてしまった木許さんは、まさにオリジナルですもんね。ただ、王道ルートを外れる怖さもあり、大それた寄り道をする勇気がなかなか出ません。
王道ルートって、どんなものでしょうか?
― 最短年数で東大を卒業して、有名企業に新卒で入って、…みたいな人生設計ですかね。一度どこかで道を大幅に踏み外すと、もう戻れないような気がしてしまうんです。
うーん。そういう人生設計を否定するわけではないですが、王道ルートってのは、さっき言ったように誰かが開拓した道ですよね。つまり、誰かが築いた道を歩むということでしょう?それって、例えば就職活動でオリジナリティを発揮したいと思ったときに困るんじゃないですか?就職活動をしたことがないから偉そうなことは言えないけど。
― な、なるほど…。他の人がやっていないことをする方が実は安全、ということでしょうか。
寄り道こそがオリジナリティになり、あなた自身の強みになるんですよ。独創性とは組み合わせの新しさでもあります。0から1を生み出すことも才能であり、1+1を3にするのも才能です。いっぱいいる東大生のなかで、君はどんな組み合わせで勝負するのか。いわゆる王道ルートに乗った人だけが強いわけではないと思いますよ。
― 最短の王道よりも、寄り道の組み合わせの方が強いと。
仕事柄、いろんな業界の経営者の方とお話する機会が多いのだけれど、たとえばそういう人たちは、ぶっ飛んだ才能をちゃんと見抜いています。
すぐれた経営者は概して面白がりで、ワクワクするようなものに目がない。経営者は日々とんでもない数の人たちと会うわけで、数多くの「パターン」みたいなものを知っているわけですが、だからこそ、過去に出会ったことのないようなタイプの才能に会うと、やっぱり目をキラリとさせて興味を持ってくれますよ。そのとき、浪人してるとか留年しているとかはごく些細なことで、あんまり関係ないと思いますね。
変革を起こす人というのは、やはりこれまでの「王道」の直線上にはない人であることが多い。もしそういう生き方に憧れるなら、王道ルートからは積極的に外れて寄り道しまくることをおすすめしますね。
― 寄り道をめちゃくちゃ推してますね…。
まあ、これはあくまで個人的な考えですよ。ただ僕は、見えない何かに可能性が圧縮されていることが耐えられない性分なんだと思います。大学に入った瞬間から、自分で相当工夫しないと、進むことのできる選択肢や触れることのできる世界の幅が、目には見えないけれどもぎゅっと狭まってくることを感じていました。いつか収束させる日が来るとしても、僕はまだまだ収束させたくないぞ!という気持ちがものすごく強かった。
年を重ねれば重ねるほどそうです。自分で広げていく努力をしないと、だんだん先細りになってくるし付き合う人たちも限られてくる。そうはしないぞ、というよほど強いエネルギーがないと、ついつい、歩きやすい道を歩こうとしてしまう。
「王道」なんてものは、僕にとってはその最たるものです。誰かのお墨つきの道を歩くのはつまらない。
― ご自身でおっしゃっていたように、かなりのエネルギーが必要になりますよね。なぜそこまでして、寄り道をしようと思えるのでしょうか。
とにかく、自分以外の何かに選択肢を狭められる、という感覚が僕は本当に苦手なのだと思います。自分で選ばないと納得できない。
例えば旅行ツアーも、誰かが決めた「おすすめ」を巡るという点であんまり好きじゃない。 グルメサイトの★の評価とかはどうでも良くて、知らない街の、カウンターしかないようなお店に「ここはイケそうだ!」と直感的に飛び込んで、最初ちょっと無愛想だった大将と仲良くなってなぜか朝まで一緒に飲み明かす。そういうのがいいんですよ。僕と一緒に旅したことがある友人たちはみんな知っていると思いますが、20代の最初からずっとそういうふうに鍛えてきましたから、こういう直感には自信があります。
今も仕事柄、毎日飛び回る日々ですが、直前まで飛行機や新幹線を予約したくないし、どれだけ忙しくても、宿は自分で選びます。たとえそれで問題が起きたとしても、それをどう解決して目的地にきちんと時間通り着くかを考えるのが楽しい。それに、自分で行程を決めたほうが、いつだって自由に寄り道できるでしょう?(笑)
― 木許さんの人となりがよくわかるエピソードです。
お話を伺っていて、たしかに寄り道をしてオリジナリティを獲得することって大事だなと感じました。でもどうしても、リスクを気にしてしまうんです。もしうまくいかなくて職を失ったらとか…。
こんなことを言うと問題になりそうですが、東大ってある意味では最強の保険なんですよ。たとえ失敗しようが、東大にいるということは変わらない。みなさんは高校まで一生懸命勉強して最強の保険を手にした。その先は冒険しないともったいない!
― 保険のお世話になること覚悟で、1回くらい道を逸れてみよう、と。冒険しないともったいない気がしてきました(笑)
― ところで、寄り道をするためには、それまでやっていた何かをやめるということも決めなければいけないのでしょうか。その決断も悩ましいです。
やめなくたって寄り道はできます。並行して色々やることによって、お互いがお互いに良い影響を与えることだって沢山あると思います。
一方で、矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、何かを学ぶときに、そこに専念するため他のものを捨てる、ということもまた、めちゃくちゃ大事なことだと思う。それは言い換えると自分にも他者にも「覚悟」を示すということです。学生時代の自分がなぜ村方先生や立花先生に可愛がってもらえたのか、今になって少し分かる気がします。それは休学を決意したり色々なものを捨てたり犠牲にしたりしてでも、そこに賭けたからです。若い人が何かに賭けようとする決意は、人の心を揺さぶります。こいつが賭けたんだったら俺も全力で教えなきゃな、という気分になる。
安全地帯から手を出している人と、危険なところまで立ち入ってでも挑戦している人とでは、やはり熱量が全く異なる。偉大なマエストロ(指揮者)たちがみんな言うのですが、「指揮者になりたいのですが、どうやったらなれますか」みたいなことを言ってくる人は、もうその時点で見込みはない。飛び込もうか悩んでるぐらいならやめときなと。本気でなりたい人・なれるかもしれない人は、そんな質問をする前に無我夢中で飛び込んでしまっているし、それぐらいのエネルギーがなければこの仕事はできない。まさに、「賭ける」という身振りの持つ大切さを言っているわけですね。
― 簡単にできることではないと感じます。だからこそ、「賭ける」ことで自分にも周囲にも覚悟を示すことが重要なことなのだと思いました。
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あと、全力で学ぶためには、師匠といえる存在を持つということも大切ですね。
― ハードルが高そうな響きです。ネットや動画で何でも調べられる時代に、わざわざ師匠が必要でしょうか?
師匠がいるのと独学では全く違うんですよ。師匠の「匠」というのは、圧倒的な何かを持っている人のことだと思うのです。圧倒的だから、時に論理を超えていて、技を説明しようにも言語が追いつかないんですよね。あるいは、言語が追いつく以上にその技が進化し続けているとも言える。だから側で共に時間を過ごして、見よう見まねで得ていくしか身に着けようがない。
― ググって身につけられることには限度があるということですね。
自分の足で向かい、自分の身を置かないと分からないことが絶対にある。
そして「匠」は妥協しない。ときに常軌を逸していると思えるほど、ある特定の事柄に凄まじいこだわりを見せる。師と呼べるような存在の側にいると、「妥協しない」とはどういうことかが良く分かるし、クオリティに対する意識がどんどん上がっていきます。
― 私もそう思える人の側にいるべきかもしれない…。
でも、「自分なんかのために…」という気持ちになってしまいます。
ええ…もったいない…。どういう場面でそう思うんですか?
― たとえば大学の先生に質問するのも、「調べたらわかるんじゃないか」とか、「つまらない質問でお時間をとるのは」とか思ってしまうんです。
わざわざ聞きに行く時点で喜ばれるから大丈夫だよ。どんなつまらない質問でも、自分の分野に興味を持って来てくれるのは嬉しいものです。もしかしたら大学の一般教養の授業をつまらないなあと思っているかもしれないけど、それを教えている先生は、いざご自身の研究のことになったら全く違う厳しさで接してくださったりする。
僕は大学時代を東大の後期教養の地域フランス分科で過ごしましたが、前期教養時代にはほわーっとした授業をしていた先生が、後期のゼミになるととんでもなく激しい講義をしたりする。大学院になればもっとでした。小林康夫先生の大学院ゼミなんて、毎回鳥肌でしたよ。大学院時代の指導教官であった寺田寅彦先生の研究室で、チコリコーヒーを飲みながらエミール・ゾラやパリ万国博覧会の話をした時間も最高に楽しかった。ただただ先生方の知の奥行きに圧倒された。
みんなはまだ先生たちの研究者=匠としての「本気」を見ていないだけです。早いうちから積極的にコンタクトを取って、深く接していかないと損だと思いますよ。しかも、どんなことだって聞けてしまうのが学生の強みでしょう?
― 東京大学だけでなく、指揮のレッスンでもそういうふうに接されていたのでしょうか?
指揮のレッスンでも、師匠に敢えて色々質問してものすごく怒られたことはありますね。今じゃコンプライアンスに引っかかるレベルで(笑)
― こっわ…。もうレッスンに行きたくないとか思っちゃいますね。
いや、むしろ嬉しくてたまりませんでしたよ?もっと怒ってほしい!とすら思いました。だって、この偉大な人が、死を前にした人が、あれほど怒って、自分のエネルギーを注いでくださっているんです。どうでも良い相手だったら怒ることすらしないでしょうから。もっと怒ってくれ!僕に時間を割いてくれ!と、そういう気持ちでしたね。
― 怒られるのも、その人の凄さを考えたら、確かにありがたいことなのかもしれませんね。もっと質問してみよう…。
― インタビュー前半でも質問させて頂きましたが、木許さんは指揮だけでなく、執筆や地域創生、音楽教育などとても幅広く活動されていますよね。多様な活動に対して、どうやってモチベーションを保っているのでしょう?
とにかく目の前にあることに全力で向き合うことですね。関わったものは、それが何であっても全力で愛するんです。演奏する作品が誰の曲であっても、その作曲家について本を書けるくらいリサーチします。あるいは、どの地域で指揮者をやることになっても、その土地自体を全力で好きになろうとしてみます。
例えば、福井大学のオーケストラで9年間(来年も指揮することになったので10年間!)も指揮しているのですが、福井がほんとうに好きなんですね、とよく言われたりします。事実、福井が大好きだし、訪れれば訪れるほど好きになっていくのですが、もっと正確には、好きになる前から好きになろうとしていました。それがどこであれ、ネガティブなところではなく、素敵なもの、面白いもの、良いものをたくさん見つけていこうと常に心がけています。それでも、どうしても好きになれないものがあれば、それはそれという感じですね。
― その姿勢は素敵だと思うのですが、なかなか実践できない気がします。
この歳になって言えるようになりました。これが、僕が何かと向き合う時の「方法」なんです。欠点ではなく美点をめいっぱい見つける。何に対しても全力で向き合う。来たものを全力で打ち返す。ときに燃え尽きるぐらいに。そんなのついていけないよ、と言う人もいるでしょう。でも、僕はどうやったってそういう向き合い方にしかならない。それが自分にとっては心地よい生き方なのでしょう。
― 常に全力で打ち返そうとする、そのエネルギーはどこからくるのでしょうか?
ただただ、面白がりなんですよ。何にでも面白いと思えるし、その好奇心に突き動かされて行動してしまう。立花先生から学んだ最大のことは、好奇心が何よりも大切ということかもしれませんね。立花先生は究極の面白がりでしたから。
― 全力を、しかも全部に…。聞けば聞くほど、自分には出来る気がしないですね…。
皆がこの方法をとる必要はないと思いますよ。好きになろうとしても好きになれないことだってあるしね。とにかく自分なりの、あなただけの何かを見つけること。
― しっかり愛せるものをまずは一つ、全力でやってみようと思います。
同時に、「これは違うよな」という自分にとって譲れないものも発見できるといいですね。僕は、一つのことだけの専門家になるという生き方に昔から抵抗があって、その結果として、こうやって生きているだけです。確かに「指揮」に収斂しましたが、指揮はたくさんの分野の知が必要なジェネラリスト的な営みでもあります。同時に、それぞれの分野のプロフェッショナルや専門家たちと連携することが欠かせないコラボレーターでもある。そういうところでも指揮に惹かれたのかもしれません。
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― 木許さんは、音楽を何かに活かそうと活動されていると感じます。全国各地の大学オーケストラの指揮・指導しかり、地方創生しかり、震災復興支援しかり。
指揮活動をはじめたときからのポリシーを、For the musicとBy the musicという二つのベクトルで説明することが多いのですが、For the musicというのは音楽そのものに尽くす姿勢のこと。たとえば徹底的に演奏のクオリティを高めていく。アーティストとしては第一にあるべきものです。
一方でBy the music、「音楽によって」何を生み出していくかを考え抜くことも同じぐらい大事だと思っています。音楽と社会の関係を考え、音楽に何が出来るかという問いをめぐって自分なりの活動を実践していきたい。そういう想いで、たとえばいまエル・システマジャパンという団体に関わっています。
― 確かに、「音楽によって」を重視するからこその活動ですね。
一方で、お金のためにはあまりならなさそうな気が…。
「職人は儲からない。だが、やりたいことや、相手にしたい人は自分で選ぶことができる。そのうちにお金は後からついてくる。」お世話になっている中国整体の老師が、僕が大学一年生の頃から叩き込んでくれた美学です。いくらお金になっても、僕は、自分が面白そうだと思ったことしかやりません。何でも面白いと思えるほうですが、これは違うなという線引きは明確にある。
― 木許さんにとって、面白いと思えることだけをする、というのが強いこだわりになっているのですね。
なんでもいいから「こだわり」を持つのって大事ですよ。自分にとって譲れないものが何であるか発見できたとき、本当に愛したいものに尽くせるのだと思います。
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木許さんの特異な生き方は、これまでの様々な寄り道や、師匠に学んだ妥協の無さ、そして「全てを全力で愛する」というスタンスによって育まれてきたんですね。
好奇心のエネルギーに裏打ちされた、木許さんの実体験に基づくアドバイスは、説得力が違いました。
木許さんの覚悟に近づきたい、人生を深く面白いものにしたいと、漠然と考えていた筆者でしたが、
まずは寄り道をしまくりながら、積極的に「匠」たちと関わらせてもらいに行ってみようと決めました。
皆さんは木許さんの哲学を、どう取り入れますか?