2年の浪人期間を経て、ようやく入学した東大でやったことは、
日本屈指の巨匠指揮者(村方千之さん)に弟子入り
知の巨人と呼ばれた伝説のジャーナリスト(立花隆さん)のもとで修行
あれ?普通に思い描くキャンパスライフに、かすりもしない…?しかも指揮者とジャーナリストの両方に師事…??
そして東大を卒業したのに、そのままプロの指揮者になって世界を飛び回る。
それだけではなく、500ページに及ぶ本の執筆や、日本各地の大学や劇場で講義したり、音楽と地域創生をめぐる独創的なプロジェクトまで手がけている…。
いったいどうやって生きてきたらこんな人生になるのでしょうか…??
取材してきました!
——どうしても最初に聞きたいのですが、なぜ二浪までして東大に入ったのに、指揮者の道に進むことにしたのでしょうか?
まあそうだよね(笑)
大学一年の頃、ジャーナリストの立花隆先生が開いていた全学ゼミの活動の一環で、エリック・ハイドシェックという憧れのピアニストに取材に行ったんですよ。カタコトのフランス語でインタビューしているうちに、なぜか急に「君は指揮者になるといい」と言われて。憧れの芸術家にそんなことを言われてしまったものですから、調子に乗ってその気になってしまったんです(笑)
—— いやいや、初めましての人にそんなこと言われても普通その気になりませんよ。
でも、憧れのピアニストがいきなりそんなことを言ってくれたからには、自分に何かあるに違いないと勝手に思った(笑)
そもそも当時の自分はジャーナリストになりたかったし、何か物を書く仕事に就きたいと思っていたんです。自分が指揮者になるというよりは、指揮ってのが何なのか、潜入取材をして自分なりに言葉にしてみたい、っていう気持ちもありましたね。
—— ジャーナリスト魂に火がついてしまったのですね。
とにかく指揮をやってみようと思い、Webサイトでたまたま見つけた指揮教室に行ったんです。
レッスンの様子を見せてもらって、愕然とした。「僕が一生かけてやっていくものはこれかもしれない」と思いましたね。
—— たったの1回の体験レッスンで人生決めちゃったんですか??
決めちゃうほどの衝撃だったのです。
今でも忘れられないのですが、教室の扉を開けたとき、入り口にあった椅子に恰幅のいいお爺さんが座っていた。最初、失礼ながら受付の方かなと思うぐらいでした。
「見学に来ました」と言ったところ、「おう、君か。じゃあとりあえずレッスンを見てみなさい」とおもむろに立ち上がった。この人が当時の日本最高齢指揮者、村方千之先生であることにようやく気付きました。
レッスンは、指揮伴奏のプロが弾くピアノに向かって、指揮を振るようなスタイルなのですが、まず門下生がベートーヴェンの交響曲を振った。それに対して「そうじゃないなあ」と村方先生が振った瞬間に、全く違う音が鳴った。
とにかく次元が違う音でした。弾き手も楽器も同じなのに、手を振っているその人が違うだけで、ここまで異なる音が生み出されるのかと。先ほどまでの和やかなお爺さんが、気迫とエネルギーに満ちて別人のようになり、強靭な音楽を生み出している。
—— 初めて見た人でも分かるほどの、歴然たる差があったんですね。
今目の前にとんでもないことが起こっていて、これこそが指揮なのだと思いました。その衝撃は一生忘れないでしょうね。
レッスン見学を終えたあとに、こっちを向いて村方先生が眼光鋭く一言。「で、入門するのかい?」
もうそんなこと言われたら即答ですよね。「今日からやらせてください。」思わず言ってしまっていました。
—— 即答する木許さんも凄いですが、それだけの感動があったわけですね。
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—— そのときには、指揮者として生きていくと決めていたのでしょうか?
いや、まったく。とにかく指揮というものを学んでみよう、ぐらいだったかもしれません。気付いたらどハマりしてものすごい頻度でレッスンに通っていました。
そんなある日、村方先生が「自分には残り時間が少ない。もうあまり弟子を取るつもりもない」というような話をしてくださったんです。
先生の残り少ない時間やエネルギーを注いで教えて頂いているからには、自分が出来うる限り全力で学ぶのが最大の敬意だと思った。というより、もっとこの人の側で学びたいと思ったし、それは今しかないと直感した。今を逃すと一生後悔することになるだろうなと。だから東大も一年休学したりして、ひたすら指揮のことを考えられるようにしました。
—— 最後の弟子だと言われて、指揮で食べていくと決めたんですか?
その当時、音楽で食べていこうなんて考えたことは無かったです。
プロになるとか、そもそもプロなのかどうか、ということにはあんまり興味がなかったですね。何より、自分にそんな才能があるとは思えませんでしたから。
—— 周りが就活も悩んでいるころに、将来設計を度外視して…?
そんな覚悟の決め方、できる気がしません。
毎回のレッスンで本当に感動して、そのたびごとに涙が溢れるほどの衝撃を受けていたからこそだと思います。
レッスンってひとりの持ち時間は大体30分とか1時間なんですが、18時に先生がいらっしゃる前から教室で待ち構えて1分でも早くレッスンしてもらって、自分の番が終わると先輩たちがレッスンを受けるのを全て見学させてもらって、23時ぐらいにようやく終わるころになったら、先生を捕まえて質問攻めにする、というような日々を過ごしましたね。
とにかく、失われゆくこの至高の技芸を少しでも継承したい、残したい、という思いに突き動かされていました。
—— 村方さんが亡くなったら失われるものを、自分こそが吸収して繋ぎ留めたいという切実さを感じます。
僕が逃したくなかったのは、音楽的な指導だけではありません。先生が遠い目で話される戦争体験のこと、戦後の荒廃した中から日本の音楽文化の立て直しに明け暮れた日々のこと……。
もうきっと他では聞けない歴史的な話を聞くのが本当に楽しかったし、刺激的でした。
そうしたお話を、立花ゼミのメンバーで書いた、立花 隆+東京大学立花隆ゼミ『二十歳の君へ 16のインタビューと立花隆の特別講義 』(文藝春秋社)に収録させてもらいました。ぜひ読んでほしいですね。
—— 自分の進路を考えて、というよりも、今を逃したらこの世から消えてしまう師匠の技と思いを、全力で継ごうとして指揮を学んだのですね。
しかし結果として、木許さんはプロの指揮者になっています。どこで覚悟を決めたのでしょうか?
ほんとうに指揮を生業にして生きていこうと思えた瞬間は、私のもう一人の師である立花隆先生に、ある一言を頂いた瞬間だったかも知れません。
—— 立花隆さんのゼミに1年生のころ所属していたんですよね?
立花隆ゼミは僕が大学に入って2年ぐらいで終わってしまいました。立花先生が大学の教員を辞められたためです。
僕にとって立花先生は小さい頃からの憧れ。側でもっと学びたかった。立花先生も村方先生と同じく「自分には残り時間が少ない」ということを言っている。
じゃあどうするか。指揮と同じで、やると決めたらとことんやりたい。そこで先生に直談判して、時々、助手的にお手伝いさせて頂くという、書生のような身にさせてもらいました。
—— 指揮と同じく、技を絶対盗みたい師匠の、最後の弟子になることを決めたのですね。
日中は立花先生の事務所「猫ビル」で本を読み漁り、夜になると村方先生のところでレッスンを受け、深夜にはふたたび「猫ビル」に戻って立花先生のお手伝いをさせて頂く。そんな日々でしたね。
—— 立花さんとご一緒された日々には、どんな仕事をしたのですか?
先生が書かれた手書き原稿を打ち込んだり、調べ物をしたり、スライドを作ったり。
必死に作業していると、先生から突然質問が飛んでくるんです。
「あなた、<主権>の定義を言ってみて」
「『スターリングラード』って映画見た?」
「大岡越前って何年ぐらいに生きてたっけ?」
「突然どうしたんだ?」って思うんだけど、後から考えると、先生の思考が見えてくる。実は先生の頭の中ではこれらがすべて繋がっているということがわかってくる。
深夜にいきなり電話がかかってきて、事務所に走っていくこともよくありました。立花先生が作業されるのはだいたい深夜。一仕事終えて朝四時ぐらいから事務所で一緒にワインを飲んだこともあったけど、そのときに先生は「この時間ぐらいから冴えてくるよねえ。だから寝ない、それだけじゃないですか」って言ってた(笑)
(二人ともいつ寝てたんだろう…)
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とにかく、何か個別に教えてもらったというより、一緒に仕事をさせてもらう中でその背中から学ばせて頂きました。
たとえば手書き原稿をデジタル化するとき、たまに先生の字が解読できず「読めません」って持っていくと、「読めます。あなたが知らないだけ」と突き返された。
「そのことについて知っていれば、前後の文脈から判断できるはずだ」ということなんですね。それで、「この辺りの本を読みなさい」といって目の前に本の山がドカッと積まれる(笑)
面白いことに、そのテーマについてある程度勉強していくと、読めなかったところが読めちゃうんですね。
何でも聞くのではなく自分でとにかく調べよ。そうすれば相手の思考まで分かってくる。それこそが大事なんだということを痛感しました。
—— さすがにスパルタ過ぎませんか…?
弟子入りとはそういうものでしょうし、それが一番の学びになるんですよ。見て盗む。その背中に追いつこうとする。アシスタントというのは、ボスと思考と同化できなければいけないのだなとわかりました。そのためには思考の根拠となる知識の量をまず近づけなければいけない。
とにかく「猫ビル」にあった本を片っ端から読みまくりました。そのうえで先生の話し相手になるためには、先生が今やっていることを知るのは当然として、先生の思考の外側にあることも持っていなければならない。
立花さんに知識量で追いつくというのは到底無理なのですが、それでもこの時期はめちゃくちゃ勉強しました。それは自信を持って言えます。その後自分が指揮者含めいろいろな人のアシスタントをやるうえで、この経験は大いに活きています。
—— 知の巨人と一緒に働くための勉強量…想像を絶します…
講演会に同行させて頂くこともあったんです。直前に200枚ぐらいのスライドを作れと指示されたり。でも言われたことだけじゃなく、先生の思考を読んで、言われる前に先回りしようと心がけていました。会場のプロジェクターの機種や再生環境から写真のコントラストを上げたり、先生が忘れた時のためにネクタイを予備で2本持っていったり。やっぱり必要になって、よしよしって思ったりしました。
そのうえで立花さんは講演会中に「あの青いスライドください」とかおっしゃる。どの「青い」なのか、思考を完全に同化させておかないと、文脈に沿った一枚をパッと出すことはできないんです。
そして、この仕事を頑張った夜の懇親会で、立花先生が僕にぽろっと「君と仕事ができてよかった。君なら、人生何とでもなるよ」って言ってくださったんですね。同席されていたNHKの方もその言葉にびっくりしていたのを覚えています。立花先生は仕事のクオリティについてはとても厳しい方でしたから。
これが本当に嬉しかった。その夜、興奮して眠れなかったぐらいです。
それからしばらく考えて、ハイドシェックが「君は指揮者になったほうがいい」と言ってくれたことと、立花先生のこの言葉が結びつきました。
指揮者になれるかもわからないし、指揮者になって生きていけるかもわからないけど、ハイドシェックが勧めてくれて、立花先生が何とでもなるといってくれるなら、自分がいま一番面白いと思うものに賭けてみようと思えたのです。
—— それが「ほんとうに指揮を生業にして生きていこうと思えた瞬間」だったのですね。
その頃、立花先生が書いたこの一節をコピーしてずっとカバンの中に入れていましたね。
自分の人生を自分に賭けられるようになるまでには、それにふさわしい自分を作るためには、自分を鍛えぬくプロセスが必要なのだ。それは必ずしも将来の「船出」を前提としての、意識行為ではない。自分が求めるものをどこまでも求めようとする強い意志が存在すれば、自然に自分で自分を鍛えていくものなのだ。
そしてまた、その求めんとする意思が充分に強ければ、やがて「船出」を決意する日がやってくる。その時、その「船出」を無謀な冒険とするか、それとも果敢な冒険とするかは、「謎の空白時代」の蓄積だけが決めることなのだ。青春とは、やがて来るべき「船出」へ向けての準備がととのえられる「謎の空白時代」なのだ。
そこにおいて最も大切なことは、何ものかを「求めんとする意志」である。それを欠く者は、「謎の空白時代」を無気力と怠惰のうちにすごし、その当然の帰結として、「船出」の日も訪れてこない。彼を待っているのは,状況に流されていくだけの人生である。
(立花隆『青春漂流』より)
一見いかに成功し、いかに幸せに見えても、それがその人の望んだ人生でなければ、その人は悔恨から逃れることができない。反対に、いかに一見みじめな人生に終わろうと、それが自分の思い通りの選択の結果として招来されたものであれば、満足はできないが、あきらめはつくものである。
(同上)
人生の残り時間を意識した二人の巨匠、村方千之と立花隆。20代半ばにこの二人のもとで目一杯学べたことが、自分にとっては決定的に重要でした。まさしくこれが「謎の空白時代」であり、「青春漂流」の始まりだったのだと思います。
—— それだけの思いを本気で受け継いで、だからこそ自分の人生を指揮に賭けることができたのですね。
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—— 村方さんの指揮の教えは今の仕事に直結しているわけですが、立花さんのジャーナリズムの技術は、今に繋がっているのですか?
指揮者の仕事は、リハーサルと本番で棒を振っている姿ばかりフォーカスされがちだけど、その実は、とても孤独な「準備」の時間があってこそなんです。
まずもって楽譜に向き合う。この作品の構造はどうなっているのか、この一音の意味はいかなるものなのか、作曲家は何をこの曲で実現しようとしたのか…。その過程で、その作品を作るに至った背景や、その作曲家が生きた時代や文化についても徹底的にリサーチするんです。こうしたリサーチは立花先生のもとで学んだことが大いに活きていますね。
2023年に出したばかりの『ヴィラ=ロボス -ブラジルの大地に歌わせるために-』(春秋社)も、こういうスタイルで書いたものです。30歳でポルトガルの国際指揮コンクールに初挑戦してありがたいことに1位を頂いたのだけど、次は文筆でも何か形になるものを残したかった。僕にとっては指揮することと文章を綴ることは全く同じことなんです。
それがちょうど35歳という節目の年になったのは偶然かもしれないけど、この年は、これまで自分がやってきたことの集大成のようなものになりました。フランスの国際音楽祭から呼んで頂いて指揮したり、ブラジル大使館と協働して「ブラジル独立200周年記念コンサート」というオール・ブラジル・プログラムかつ日本初演を多数含むコンサートを企画・指揮したりしました。各国大使がご列席くださる中で満席のスタンディングオベーションを頂いたこのコンサートのことは、一生忘れないでしょうね。
そしてそのあと、「自分の足で見よ」という立花先生の教えに導かれるようにブラジルに渡って現地で研究やディスカッションを重ね、35歳を終える直前に、今度はこの500ページの本を世に送り出すことができました。文字通り、音と言葉を往復し続けた1年でした。
偉大なる指揮者でありブラジル音楽の大家であった村方千之と、伝説のジャーナリストであった立花隆の元で学ばせて頂いたものとして、自分にしか出来ない仕事が出来たと思っています。二人の師はいずれも現世を離れてしまわれ、この本を直接手渡せなかったことだけが残念ですが、少しは恩返しが出来ていたらいいなと…。
—— 本を読みましたが、ザ・専門書という感じの見た目とタイトルに反して、柔らかい文体が読みやすく印象的でした。
でも、なぜヴィラ=ロボスというブラジルの作曲家を題材にしたのでしょうか?
村方先生の最後のコンサートの曲目は、すべてヴィラ=ロボスだったんです。実は村方先生はヴィラ=ロボスはじめブラジルの作品を広めることに人生を尽くしてきた方で、このコンサートはその活動の区切りでもありました。
アンコールで演奏された「ブラジル風バッハ第4番」という曲の「前奏曲」を聞いた瞬間、もう涙が溢れて止まらなくなったんですね。なんだこれはと。世界にこれほどまでに雄大で、祈りに満ちた音楽があるのかと。表面上は清らかな指揮なのだけど、一振り一振りに万感の思いがこもっていて、そこから紡ぎ出される音が空間を造形してゆく。人間にはこんなことが出来るのかと。
先生がお元気な間にこの曲を絶対に学ばなければならないと、論理をすっ飛ばして直感的にそう思ったんです。だから、ヴィラ=ロボスが私を指揮の道に導いてくれたのだといっても過言ではないでしょう。
【ヴィラ=ロボスとは?】
1920年代から50年代にかけて活躍したブラジルを代表する作曲家です。日本だと、堀口大學とか永井荷風とかの時代にも重なっています。
生涯で700曲ぐらい作曲した多作家で、日本だと「ブラジル風バッハ」というシリーズが有名。オーケストラのみならずギター作品にも素晴らしいものを残していて、クラシックギターを演奏する人ならヴィラ=ロボスを知らない人はいないでしょう。一時期、ブラジルのお札の肖像にもなりました。
作曲の仕事があってもギリギリまで遊んでいてリハ前の数日で一気に書き上げただとか、アマゾンの森に住む鳥の鳴き声から作曲したとか、アマゾンの奥地を探検して人喰い族にやられそうになったとか、いろいろなエピソードがある人で…まあ最後のは嘘だと思うんだけど(笑)
(by 木許さん)
興味ある方はぜひ!こちらから。
—— 木許さんの活躍の場は、指揮や執筆に留まりません。全国各地の大学オーケストラの指導、地方創生、教育活動…。本当にいろんなことをされていますよね。自分のためというより、誰かに尽くすような活動が多い印象です。
いろんなことをしているように見えて僕の中では全部繋がっているのです。音楽を消費するのではなく、音楽で何かを生産していくようなことに関わっていたい。
利己ではなく利他に生きるというのは意識はしているけど、でも、その根幹にあるのは自分で自分のやりたいことを選ぶというポリシーかな。
well-beingという概念が最近はよく取り上げられていますが、私見では、この概念の根幹は「自己決定」なんですよ。さっき引用した立花隆の一節は1985年に書かれたものですが、まさにこのことを鋭く射抜いています。
今やっていることが誰の役に立つかわからないし、そもそもすぐには役に立たないかもしれない。でも長いスパンで見れば何かが起こるかもしれない。
教育もそういう側面があるでしょう?哲学者のドゥルーズが『アベセデール』という講義録でそういうことを言っていますが、遅れてわかってくるものとか、後から理解できてくるものとかがあって、それこそが深い学びになったりする。
だから、あんまり結果を急がず、当たるかも分からない石を投げ続けています。少なくとも、何もしなければ何も生まれませんから。
—— その独特な「石の投げ方」は、膨大な好奇心や強い想いに裏打ちされているものなのですね。
立花隆先生から教わった最大のことは、好奇心でしたからね。そして、この『ヴィラ=ロボス』という評伝を書きながら、ヴィラ=ロボスという偉大なる先人から「石の投げ方」や未来への託し方・託され方を学ぶこともできました。
彼は指揮者であり作曲者であるのみならず、プロデューサーであり音楽教育者でした。ヨーロッパとの比較のもとで、ブラジルの音楽シーンの国際的な発展を目指してありとあらゆる手を尽くしました。クラシック音楽の生演奏の機会が少なかったブラジルの街々を回ってツアーをしたり、子どもたちへの音楽教育に力を注いだり、ブラジル政府の音楽教育庁みたいなところのトップをしたり。
リオデジャネイロにある彼のお墓に刻まれた一節「私の作品は返事を期待せずに書いた、後世の人々への手紙である」の通り、死後においても、膨大な謎と課題を後世に残し、今にいたるまでブラジル音楽界に波を起こしています。彼のあり方から大いに学びながら、音楽に何ができるのか、僕も未来に投じ続けて行きたいと思います。
—— きっとそれは、木許さんを育てた巨匠たちの遺志でもあるのでしょう。
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最高齢指揮者と知の巨人の、最後の弟子。その技をこの世から消すまいと、全力で吸収してきた木許さんが至った境地。
自分で自分の人生に賭け、音と言葉のあいだを自在に駆けめぐる姿は、「なぜ東大から指揮者に?」という最初の問いが、空虚に思えるほどの説得力を持っていました。
そしてこのインタビュー、なんとまだ続きます。
木許さんの変人度合いと、溢れ出る包容力に甘えた取材陣、まさかのお悩み相談を始めます。