東大生に学問について語ってもらうシリーズ企画「三度の飯よりコレが好き」。
今まで英文学やマテリアル工学を研究している東大生たちに登場していただきました。
今回執筆していただくのは、ユーゴスラヴィア研究を行っている修士1年の宇野さん。
三度の飯より美味い学問の味を、おすそ分けしてもらいましょう。
こんにちは。総合文化研究科地域文化研究専攻修士1年の宇野真佑子です。「三度の飯よりコレが好き」という企画での記事の執筆にお誘いされ、自分の研究について書かせていただくことになりました。私はユーゴスラヴィア現代史の研究をしています。
そう自己紹介すると、たまに「それってどこにある国だっけ?」と聞かれることもあります。ユーゴスラヴィアという名前の国は、現在地図上に存在しません。かつてのユーゴスラヴィアの領域は、現在スロヴェニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、コソヴォ、北マケドニアの7つの国々に分かれています。地図で示すと、こんな感じです。
サッカーワールドカップやテニスの国際試合などで聞き覚えのある国もあるのではないでしょうか?
※コソヴォは2008年にセルビアからの独立を宣言しましたが、セルビアはこれを承認していません。日本政府はコソヴォの独立を承認しているため、本記事ではコソヴォを国家のひとつに数えました。
私はユーゴスラヴィアの現代史の中でも、とくに歴史的なできごとの解釈とナショナリズムの関係というテーマに関心があります。
卒業論文ではユーゴスラヴィア紛争直前のある雑誌に注目し、「第二次世界大戦中や終戦直後の大量殺害や戦争犯罪が、その雑誌においてどのように論じられているか」、また「それらの議論がユーゴスラヴィア紛争直前という当時の情勢とどのように結び付けられていたのか」を分析しました。
しかし、ユーゴスラヴィアで紛争が始まったのは1991年のこと。一方で第二次世界大戦が終わったのは1945年のことです。
当時から数えて半世紀近くも前の戦争が、ユーゴスラヴィア紛争といったい何の関係があるの?と思われる方もいるかもしれません。それを解説するためには、少し長い前置きが必要になります。
1939年に第二次世界大戦が始まったころ、ユーゴスラヴィアは「ユーゴスラヴィア王国」という国でした。
これは、かつてハプスブルク帝国やオスマン帝国などの支配下にあった南スラヴの人々が第一次世界大戦の後にひとつの国家のもとにまとまったものでした。
当時すでにそれらの人々の間では、彼らがいくつかの「民族」に分かれているという意識ができていました。ここでいう民族とは、「言語や文化を共有する人々の集団」という意味合いです。
セルビア人やクロアチア人、スロヴェニア人など、それぞれ異なる民族が存在するという意識がある人たちにとって、彼らをまとめて単一の「ユーゴスラヴィア人」という民族を作ろうとする王国の政策は、「不公平だ」「自分の民族が軽視されている」など、それぞれの立場から不満が溜まるものでした。
1941年の春には第二次世界大戦の戦火がユーゴスラヴィア王国へとおよび、それから4年にわたって激しい戦いが繰り広げられます。
その過程では、ナチス・ドイツの支援を受けた過激なクロアチア人の活動家たちによって、ユダヤ人やセルビア人、ロマ(「ジプシー」と呼ばれることもあります)などの組織的な殺害が行われました。その一方で、セルビア人の武装組織によるクロアチア人などの民間人の殺害もありましたし、その両者に対抗して民族を問わず集った共産主義者を中心とする武装組織「パルチザン」もまた戦争捕虜の殺害などを行っていました。
さまざまな民族対立やイデオロギー対立が暴力の行使を伴って現れたことで、大きな犠牲が生じてしまいました。
第二次世界大戦では、最終的にユーゴスラヴィア共産党の率いるパルチザンが他の勢力に勝利し、ユーゴスラヴィアは6つの共和国からなる社会主義の連邦国家として再出発しました。
パルチザンは、自身の敵対勢力が多かれ少なかれ枢軸軍に協力していたことを非難し、自分たちこそが「ファシストに対して戦い、国を解放した」のだと主張しました。
そしてそのことによって、ユーゴスラヴィア内での対立はイデオロギー対立が主眼に置かれ、民族単位での対立という側面への注目は抑えられました。
社会主義国家となったユーゴスラヴィアは、国内に住むさまざまな民族どうしの平等を掲げるとともに、冷戦下で国際情勢のバランスを利用しながら発展します。
しかし、時代が下るにつれ、徐々に経済的・政治的な行き詰まりも見えてきていました。そんな中で、冷戦終結や「東欧革命」など、ユーゴスラヴィアを取り巻く国際情勢も激変します。ユーゴスラヴィアでもその影響を受けつつ変革が進みますが、連邦の今後の方向性をめぐって対立が起こります。
その溝は埋められることなく、1991年に紛争が始まりました。もっとも戦闘が激しかったボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、1992年から1995年の終戦までに10万人以上が亡くなり、200万人以上が住む場所を追われる結果となりました。
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ユーゴスラヴィア紛争では、「民族」を単位として利害を考えたり、敵味方を分けたりする考え方が人々の思考や行動を大きく規定しました。そうした考え方は、ナショナリズムの一種だといえるでしょう。
パルチザンが自分たちこそが「ファシストに対して戦い、国を解放した」のだと主張したように、戦後しばらくは「ファシストと反ファシストの戦い」とみなされてきた第二次世界大戦も、社会主義への信頼が揺らぐとともに解釈が見直されるようになりました。
そうした動きは、政権による制限を乗り越えて歴史研究を進めるという意味では重要だともいえるのですが、残念ながら当時の状況においては、また別の人々による政治的な利用に容易くつながってしまうものでもありました。
ユーゴスラヴィア紛争中にはしばしば、自分の民族が行っていることの正当性を主張したり、他の民族に対する恐怖心を煽動したりするために、第二次世界大戦中のユーゴスラヴィアでの民族対立や大量殺害が、(しばしば歪んだ形で)参照されました。他の民族の「危険性」を強調したり、過去の虐殺を矮小化したり……。
政治指導者の発言やマスメディアでの報道が、過去の民族対立を当時の状況に重ね合わせて恐怖を煽ったことも、「民族浄化」として知られるような暴力の激化に拍車をかけたのではないかといわれています。
その一方で、そうした形での「過去の利用」や「恐怖の悪用」を批判する人たちもいました。
私が卒論で中心的に扱ったのは、ユーゴスラヴィア紛争が起こる直前の時期、ナショナリズムを強めるために歴史的なできごとを(歪んだ形で)利用するような勢力を批判的に見ていた人たちです。
敵対心や憎悪を煽るような主張を批判し、異なる民族どうしの「和解」を目指した人たちも、社会主義期に隠されていた・注目が集まらなかった歴史的事実の追及を行っていました。しかしそれもまた、(彼らの意に反して)民族対立の激化に影響してしまったのではないか?とも考えられます。
紛争中や独立後のユーゴスラヴィア継承諸国におけるナショナリズムや、歴史をめぐる論争に関しては、これまでも多くの研究が積み重ねられてきました。歴史をどのように語るか、どのような意味を持たせるのかは、それを語る人がどんな立場にあるのかによって、その時々に応じて変わります。
修士論文では、紛争直前に焦点を当てて、大変動のさなかにおいて、ユーゴスラヴィアに住んでいた人びとはどんな論理を使って自らの政治的な目標を正当化しようとしたのか?また、異なる思惑を抱えるそれぞれの人びとが行う主張は、他の人びとの主張とはどのように相互に影響し合っていたのか、あるいはユーゴスラヴィア外部の情勢の変化はどのように影響したのか?ということを探っていきたいと思っています。
こんなふうにまわりの人に自分の研究のことを話すと、よく聞かれる質問が3つあります。
1つめは、「ユーゴスラヴィアや東欧が好きなの?」という質問です。しかし、個人的にはこれはとても答えに困る質問でもあります……。まず、「国が好き」「地域が好き」というのはどういうことがらを指すのかよくわからないことがひとつです。具体的な人間ひとりひとりに対してさえ「この人のこういうところは気が合う、こういうところは好き、こういうところは意見が合わない」などいろいろな気持ちがあるというのに、より抽象的かつ大規模な「国」とか「地域」に対して「好き」かどうかと聞かれると、私は「どういう定義を『好き』だとすればいいのか、それをどうやって判定すればよいかもわからないので難しい……」と思ってしまうのです。
もう少し対象を絞って、たとえば「ユーゴスラヴィアや東欧の文化や言語が好きなの?」と聞かれたのであれば、もう少し答えやすくなります。中東欧やバルカンの国々を旅行で訪れたときは大いにわくわくしたし、郷土料理もおいしいと感じるし、現地で制作された映画なども好きです。ただ、私はこの地域についてまだまだ知らないことばかりなので、「好き」というのはおこがましいかもしれません。どちらにせよ、研究対象として興味深いと思っていることは間違いありませんし、これからも勉強を続けていきたいと思っています。
2つめは、「研究が好きなの?」という質問です。これもまた、私が研究という営みをはじめたばかりだということもあってなかなか難しい問いです……。
学部生のころ、修士課程の先輩が「研究は9:1でつらいことのほうが多いけど、みんなその『1』の楽しいことのために研究してるんだと思う」とぽろっとこぼしたことがありました。当時の私にはピンときませんでしたが、今ではその先輩の気持ちがとてもよくわかります。膨大な先行研究を追い、現地語で書かれた一次史料を読み、そのうえでさらに自分の論を組み立てるのはとても大変ですし、しばしば行き詰まります。
しかし、辞書に頼りながらも一次史料を読んで当時の人びとが議論していたことを目の当たりにすると、「この人たちが考えてきたことには誠実に向き合わなければならない」ということを改めて認識し、身の引き締まる思いになります。
2020年という地点から過去を眺める私たちは、ユーゴスラヴィアで1991年に紛争が始まったこと、凄惨な戦いが膨大な犠牲を生んでしまったことを知っています。しかし、紛争前あるいは紛争中を生きていた人々は、それぞれの置かれた状況の中で将来を模索していました。そのことに対して、ときどき胸を衝かれるような気持ちになります。
私が現在主に研究に利用しているのは、約30年前に発行されていた雑誌や新聞、政党のマニフェストや政治家の演説の記録です。当事者たちの主張や行動を丹念に追っていき、ふとした発言に彼らの息遣いを感じられるときや、彼らの主張を規定したものは何なのかということを考えるときには、研究が楽しいと感じられます。
3つめの質問は、「どうしてそのテーマを選んだの?」です。
ユーゴスラヴィアに興味を持った最初のきっかけは、高校生の頃に米澤穂信『さよなら妖精』(創元推理文庫、2006年)という小説を読んだこと……なのですが、それから何年も経ってもなお興味が持続し、かつ発展している理由はもう少し広いもので、なおかつ自分により直結したものだと思っています。
私が関心を持っていることのひとつは、抽象的に言い換えると「過去とどう向き合うか?」という問題です。過去の受け止め方は、時代や立場によって異なっています。そしてそれは、とくにその過去が苦く重いものである場合は際立ちます。
過去のできごとを世代を超えて継承するための手段として、たとえば記念式典や記念碑、博物館などがあります。しかしそうした特別なイベントや目に見えるものとしての形をとっていなくとも、一見無関係な議論の中に過去のできごとと関係づけられた意見が出てくることもあるでしょう。
太平洋戦争をはじめとした歴史上のできごとに関して日本が近隣諸国と未だに論争や齟齬を抱え、その中には深刻な政治問題と化しているものもあることを思えば、この「過去とどう向き合うか?」という問題は決して他人事ではありません。
ユーゴスラヴィアでそうであったように、歴史についての議論はナショナリズムに結び付けられることもしばしばあります。しかし、私たちがふだんあたりまえのように使っている(この記事でも使ってきた)「○○人」とか「○○民族」といったことばも、自明の概念ではありません。
私は上で「言語や文化を共有する集団」と定義して「民族」ということばを使ってきましたが、この定義にもさまざまな穴があります。それらに目をつぶって仮にこの定義を使うとしても、そもそも「言語」や「文化」は「ここからここまでがA、ここから先はB」とはっきり区別できるようなものではありません。「ここからここまでがA人で、ここから先はB人」という区別は、一見するほど簡単ではないのです。
それに「民族」とか「国民」―あるいは「ナショナリズム」ということばの中核にある「ネーション」という集団意識が成立したのは近代になってからだと考えられています。それにもかかわらず、「ネーション」という集団は私たちの認識や世界の動きを強く規定しています。歴史に対する見方も、ネーションに強く規定されているもののひとつですね。
いったいそれはなぜなのか?これはナショナリズム研究全体に関わる問いであると同時に、ユーゴスラヴィアにおける歴史の見方を研究するうえでも避けられない問いです。
私はまだまだ勉強不足で、上に挙げたような問題を真正面から論じることはとてもできそうにありません。ですが、これらの問題は自分の生活にも直接関わってくる問題だと思います。
第二次世界大戦という「過去の対立」が半世紀近く後になって深刻な影響を及ぼし、今もなお影を落としているユーゴスラヴィアの歴史の研究を通して、そうした大きな問題にアタックするための、ほんのわずかな足がかりをみつけることができたらいいなと思っています。
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ここまで、私自身の研究についてお話ししてきました。
私が所属しているのは「地域文化研究専攻」ですが、自分の研究の方法論としては歴史学が一番近いのではないかと思っています。いわゆる「人文系」の分野です。
人文学は最近なにかと逆風を浴びがちな分野かもしれません。でも、人間の行いや考えを対象に、一見して「あたりまえ」と思ってしまいがちなものごとを問い直すという人文学の営為は、意義深いものであると同時にとてもわくわくすることだと思います。
私は、そういったことを考えている大学院生たちがつくったUT-humanitas(ゆーてぃーふまにたす)という学生団体に参加しています。この団体は、人文学に携わる・関心を持つ大学院生が中心となって運営しており、人文学について知ってもらうこと、人文学に関わる人が広く交流することを目的としています。
「人文学に携わる・関心を持つ」とはいっても、歴史学や哲学、あるいは社会科学系(法学や社会学など)のいわゆる「文系」の人たちだけではありません。年輪やアイスコアなどの生物データに含まれる水の同位体比などの長期的な定量データをもとに、気候が歴史に与えた影響を研究している人や、情報工学を専攻しつつ言語学にも深い関心を寄せている人など、いわゆる「理系」のメンバーもいます。
過去にUmeeTでも2回取材していただきましたが、五月祭・駒場祭では「ジブン×ジンブン」という企画を行い、自分たちの研究について、人文学について、また、大学院生はふだんどんなことをしているのかということを知ってもらうことを目的として展示を行いました。昨年の駒場祭では、荒天の中約1200人の方にご来場いただき、さまざまな感想が寄せられました。
この企画は今度の五月祭でも開催予定です。人文学にご関心がある方、大学院生って普段何してるの?と疑問をお持ちの方、「あたりまえ」だと思われがちなものごとをもっと突き詰めて考えてみたいと思う方が楽しんでいただけるような、そして人文学という分野―あるいは人文学がもつ考え方―をより身近に感じていただけるような企画を今後も展開していきます。まだ少し先の話ですが、五月祭にもぜひお越しいただければと思います!
また、これまでの活動についてはUT-humanitasのnoteやブログ、Twitterなどでも発信しています。学園祭以外での活動も準備中なので、ご期待ください!