――何が「現実」なのだろうか・・・。
2週間前、卒業旅行でひとりブリュッセルを訪れていた。
その街が数日前に連続テロ事件に見舞われ、今ではテレビの画面に繰り返し映し出されている。
「もうちょっとで自分がテロに巻き込まれていたかもしれない」、というほどの切迫感はない。事件現場となった地下鉄の駅は観光名所からも20分くらい歩けばつく距離だが、EU本部などは観光ガイドには載っていなかったので訪れはしなかった。
ただ直接テロに巻き込まれてはいなかったとしても、少しタイミングが違えば都市機能がマヒした街にぽつんと放り出されていたかもしれない、とは思う。それくらいの「距離感」だ。
一方でまた、実際に現地に足を運んでいたことが、今回の事件の感覚的な理解を助けた面も確かにある。
今回初めてヨーロッパで複数の国を横断して、ヨーロッパが国境管理の完全に取り払われた「異次元」の地域だというのは実感した。(今では当然のようだが、国境がないことはいくら強調しても足りないほど画期的だ。)
またブリュッセルはロンドンやパリと比べると賑わいが乏しいせいか、夜ひとりで人影まばらな広場を歩いていると不安を感じる街だったという印象はあった。
悪い予感が的中したというほどではないけれど、ブリュッセルでテロ事件が起きたという事実が、自分が実際に見てきた現実と確かに噛みあうという実感がある。
ブリュッセルを観光した翌日には、11月に犠牲者が出たパリのテロ現場を訪れていた。
襲撃された劇場とレストランを回って、銃弾の痕が刻まれたガラスや犠牲者を悼む数多くの献花や旗を目にした。事件現場は、車通りの多い道路沿いの至って普通の街角、あるいは子供の姿も目にしそうなマンションが立ち並ぶ住宅街の一角で、私が訪れたときには平然とパリの街並みに埋もれているだけだった。
つい4か月前に、実際にその場で発砲が行われていたことを、その場で人が殺されていったことを、事実として頭で理解してはいても、その痕跡を目にすることはできても、具体的にイメージして実感として受け入れることは私にはできなかった。
現実に想像力が追いつかないのだ。
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立ち戻って、昨日のブリュッセルのテロ事件。
今回の事件を「たった2週間の差で自分自身に降りかかるかもしれなかった危険」として語ることもできる。
けれど、ブリュッセルでの爆発の速報を聞いて私は自分の身に迫る恐怖心を感じなかったし、その意味であくまで「外部」の人間として報道を受け止めた。当事者意識はなく、今回のテロ事件はあくまで「他人事」だ。
私はブリュッセル在住ではないし、シェンゲン協定で行き来が自由なEU諸国に留学している身でもない。世界一の治安で夜中に一人で歩いていても不安の一つも覚えない「異次元」の国・日本で安寧に生きている。
世界中のテロが、戦争が、貧困がいくら報じられても、それはテレビの画面の向こう側の話であって、自分自身に直接影響を及ぼすものではない。
ブリュッセルの人々は怖いだろうなぁとか、シリアの市民は寒い中苦しいだろうなぁとか想像してみたところで、あくまでレンズを挟んで反対側で起きていることで「他人事」でしかない。その実態をメディアを通して見聞きしたところで、本当に今そういった状況が地球の裏側で起きていることを身体的に感じることはない。
「事実」として知っていても「現実」とは受け止められない「非現実」としての現実。自分は「外部」の人間として「他人事」としてそれを受け止め、報道を見て一時的に共感を寄せても、報道が止めばすぐに忘れていく。現実と非現実のあいだには分厚いテレビ画面が横たわり、両者を根本的に隔絶している。
でもここに来て、テレビの画面の向こう側との距離は徐々に狭まってきているようにも感じている。4か月、また2週間という時間を隔てて、あるいはヨーロッパと日本という1万キロの空間を隔てて、画面に映し出される「非現実としての現実」が、自分が生きている「実感を伴った現実」と確かに繋がっているのだと感じ始めているのだ。
テレビに映し出されるのは夢か現実か。夢のような信じられない世界でありながら現実であり、しかしまだ想像力が追いつかない非現実的な世界に留まり続けている。
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泥水を掬って飲むアフリカの子供の写真は、それを見た幼き日の自分に確かな衝撃を与えた。
しかしそれは「テレビの向こう側の世界」でしかなく、幼な心にその実態をリアルに受け止めることはできなかった。
2001年の9.11も2005年のロンドンの同時多発事件も、当たり前の日常が一瞬で崩れ落ちるさまを平穏な生活を送る自分に見せつけた。
しかしそれはまだ「時事問題」でしかなく、教科書の記述を答案用紙に再現していればそれで済んでいた。
2011年のリビア空爆も今に至るシリア内戦も、深く考える機会になった。大学で模擬国連を始めていたこともあり、少しずつ学術的な議論も試みるようになってきていた。
しかしそれは結局模擬国連の活動における「模擬」の世界でしかなく、学生の身分で報道をつまみ食いして、あとは勝手に想像力で補って国連各国代表を演じていればそれでよかった。
けれどあと一週間を残して学生人生を終えようとしている今、「テレビの向こう側」で「時事問題」で「模擬」だった世界が、実際に直面する現実になろうとしている。いきなり向こう側の世界に直接飛び込んでいく訳ではないにしても、責任を持つ個人として足を踏み入れる領域として迫ってきている。
果たして何が「現実」なのか。まだその答えは見えない。
自分が直に体験したことだけを「現実」として捉えるのは視野が狭く、時にエゴですらあるだろう。
逆に実感を伴わない情報を鵜呑みにして、全て「現実」として分かったように振る舞うのは傲慢だ。
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私がこの春から踏み入れようとしている開発援助の世界は、途上国の現場とは遠く離れた場所で向こう側の「現実」を見定め、政策決定に結び付けていくことが求められるフィールドだ。確かな「現実」をこの目で見定めなければ、氾濫するイメージの中で進むべき方位を見失い、無用な開発を押し付ける結果に陥りかねない。
現実と非現実のあいだでもがき続けながら、それでも「確かな現実」を追い求める努力を続けていきたい。