「期待の現役東大生ミステリ作家」──
1年半前、UmeeTがそんなフレーズと共に取り上げた浅野皓生さん(東大法学部)についての嬉しいニュースが編集部に舞い込んできました。
浅野さんの新作『責任』がこの度「第44回横溝正史ミステリ&ホラー大賞」で優秀賞を受賞、自身初の単著として今月発売されるというのです。
浅野さんのデビュー作『テミスの逡巡』に登場するウェブメディア「UTディスカバー」のモデルであり、ご縁を感じている我々UmeeT。こうしちゃいられない!ということで、早速取材してきました。
横溝正史ミステリ&ホラー大賞で優秀賞を受賞されたと聞きました。おめでとうございます!
受賞されたときのお気持ちはどうでしたか?
まあ嬉しかったは嬉しかったんですが、それよりも原稿をちゃんと書き直さなきゃなって気持ちが強くて。
去年の9月、留学先のアメリカで、KADOKAWAでの書籍化のための原稿を書き終えました。それを編集さんに読んでいただいたところ、割と面白いから、ちょうどタイミングよくKADOKAWAがやっていたこの賞に出してみよう、ということになって。締切ギリギリのことだったので修正もままならないまま出してしまったんですよね。
自分としては一次に通るとすら思っていなかったんですが、二次に通ったのもまさか、最終審査に通ったのもまさか。でも最終審査の審査員の方々が雲の上の人たちなので、通らなくてもその方々に見ていただけるだけで嬉しいなと思っていました。
そうしたら優秀賞。流石です……。
ご自身としてはそれほど自信作ではなかったんですか?
そうですね。長編は中高の時に一度書いたぐらい、それも荒唐無稽なものだったので実質的には今回が人生初で。
やっぱり短編と長編だと変わってきますか?
全然違いますね。短編は場面数が少ないし、場面ごとの役割もはっきりしていて、あまり自由度が高くない。最初から決まっている結末に持っていくために、こういう展開でやるしかないとすぐに決まります。
数学の証明みたいです。そうか、当たり前だけどミステリって後ろが先に決まってるんですね。
そう。短編だと字数の制約が大きいので、一ネタが出来ると書きやすい部分はあります。短編の難しさは他にあるにしても。
長編だと、登場人物が人間的にどういうふうに反応するかといった、謎を解くだけじゃないところも書くことがより重要になってきます。
あとは単純に登場人物も増えてそのひとりひとりが別の思惑を持って動くから、この場面でこういうふうに動かれたらストーリー的に崩壊するとかトリックが成立しないとか、そういうことも考えつつ書かないといけないのが難しかったです。
すごく論理的に作られているんですね。
ミステリ作家はそういう人が多いと思います。ミステリと言っても、ざっくり言っていわゆる本格ミステリと言われるようなとにかくトリック重視のものと、社会性のある題材を扱った社会派ミステリと言われるようなものとがありますが、今回の作品は後者寄りなので余計、登場人物の描写をちゃんと書かないと意味がない。そこの難しさは全然短編とは違って、体力的にもキツいし時間もかかりました。改稿もかなり大変でしたし。
大幅な改稿をされたということで、「カクヨム」で公開されていた版と書籍とでは結構変わるんですね。
相当変わりますね。読み直してみると僕の中で「そうはならないだろう」と思うところもあって、展開を変えています。
人の描き方としていろんなものを描きすぎてしまっていたりする。答えを与えたいっていう潜在的な欲望みたいなものがあって、初稿では自分の中でこうだと思ったことを全部言葉にした節があるんですが、それは多分小説では不健全で。
登場人物は実在しないわけだから、書き手が説明を加えてあげないとわからない部分があるのかなとも思うんですが。
でも説明しすぎっていうのはやっぱり駄目ですね。やっぱり人間的にリアルじゃないといけないから。
書く時ってどうしても俯瞰的になってしまいがちというか。
一人称で書いてはいても登場人物と僕とは別人で、登場人物を上から見て俯瞰的に評価する神の目線が常にある。でも、この俯瞰して見る視線を登場人物が持ってしまうとおかしなことになる。すべてが見えすぎてしまうんです。
この人はこういうことを考えるはずだ、と俯瞰的には思うんだけど、そうでもない。
人って視野がそんなに広いわけじゃないから、突き放してみればこう思う、という状況でも、渦中にいる人がそう思えるかといったら思えないんです。登場人物は僕とは別の人物だから、答えを与えすぎちゃいけないし、読者によって感じ方が変わってもいい。肝となる部分以外の部分をあんまり書きすぎると、細部に余白がなくて面白くなくなっちゃう。
自分が持っている神の目線を捨てて、なるべく登場人物になって考えながら改稿している、ということでしょうか。
そうそう。これはおかしい、考えすぎ、その立場だったらそこまで考えられる?僕は無理、とか、そういう色々な視点を自分の中に置いて改稿しています。登場人物の練り込みもそうだし、プロットも甘かった。反省反省です。
受賞されてめでたいはずなのに、なんてストイックな……。
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今回の作品のテーマはどこから着想を得たんでしょうか。
責任みたいなものが大きなテーマです。大学で倫理学の授業を受けていて、そこで運と責任みたいな話を聞いて。
「運」。運ってluckの運ですか?
そうです。
一般に、ある人間が責任を負うのは、その人のコントロールが及ぶ範囲についてのみだ、という強力な直感があると思うんです。言い方を変えれば、行為者に制御不可能な事柄、つまりは運によって、責任が変わるなんておかしいと、普通はそう考えたくなる。でも、突き詰めて考えると一筋縄ではいかない。例えばどんな行為を選択するかは当人の人格に依存するところが大きいけれど、その人格は家庭の事情とか交友関係とか、様々な偶発的な事情によって形成されているはず。だとすると、元を辿っていくと、当人のコントロールできないところに行き着いてしまう。
あとは有名な例だと、脇見運転をしている2人の人間がいて、1人は子供を轢いて1人は轢かなかった、というときに人は子供を轢いた方をより強く責めると思うんですけど、子供が目の前に飛び出してくるかどうかも本人の制御不可能な運。また、2人がどれくらい責任を感じるのかも、かなり違ってくると思うんです。子どもを轢いてしまった運転者の方が、痛切に後悔をするでしょうから。
今回実際にテーマにしたのは、自分のしたことによって何か大きな災難が起きてしまったというときに、周りからどんなに悪くないと言われても、いややっぱり自分がああいうことをしたからだ、という思いが消えないという話で。この辺りの感情をミステリとして書きたいと思いました。
あと、作中の12年前の事故は行政法の授業から。国家賠償責任の有名な判例で、パトカー追跡事件というのがあります。パトカーの追跡により、追跡を受けていた者が事故を起こしても、国賠法上当然違法とはならない、というもの。
3年生の冬、行政法のパトカー追跡事件と倫理学の授業が同じ時期にあって、これは絡めてしかるべきだと思って書き始めました。
前作に続いて今回も大学の授業から着想を得ていたんですね。行政法に関しては私(法学部の同級生)も同じ授業を受けてたわけですが、そのインプットをこんなに素晴らしいアウトプットに落とし込んでくれるなんて、授業する側も幸せだろうなと思います。
いやいや、まあ卑俗な言い方をすればネタ集めですよ。
かっこいいです。「東大生ミステリ作家」としての強みじゃないですか。
浅野さんが法学部でよかった……。法学部生だからこそ書ける小説もあるんでしょうね。
まあ、それもまた運ですよね。
そういう意味では、今現在の浅野さんが作品に投影されているということなんですかね。
そうですね。環境の中でどういうことがあるかによって書くことも変わってくると思います。また書きたいと思ったときに書かせていただけるなら、いろんなものを吸収したり消費したりしてその中から書きたいテーマを出してこられればと思います。そういう機会があるかはわかりませんが。
もしまた浅野さんの作品を読めることがあれば楽しみです!
浅野皓生『責任』本日9/28より発売です!
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