笑っちゃうぐらい壮大な宇宙と
何でもない生活の狭間を
溺れるように泳ぎつづける。
そんな宇宙を泳ぐひと
宇宙工学研究者の久保勇貴さんによる
連載エッセイ。
「ん~」
「ん~~」
「ん~~~……」
時刻、夜20時過ぎ。宇宙科学研究所、屋上。雲を眺めている。
「……」
「…………」
「………………」
屋上でたまたま居合わせた、ちょっと面識のある職員さんと全然面識のない職員さんと僕、で3人。その3人で、無言で雲を眺めている、と、誰かが口を開く。
「まあ月食ってどんどん光らなくなっていくイベントですもんね……」
「そりゃあ雲に隠れたら見えませんよねえ……」
「ですよねえ……」
そしてまた、沈黙。今まさに皆既月食が発生しているであろう南東の空には、なおもびっしりと雲がかかっている。とりあえずピークの時間までは粘ってみようと思ったものの、あの、あれ、あれだ。とても気まずい。たまたま出会った人同士、月食を見て一緒に盛り上がれるわけでもなく、かと言って今さら一人で別の場所に移動して見るのもなんか失礼なんだろうか、いやでも特段話すこともないし……、と仕方なく全員で黙って雲を眺めている。もちろん別に雲を見たいわけでもないんだけど、なにせもう目の前の選択肢が雲の凝視しかない。もうほんと、穴が開くほど見ている。穴が開くほど見ているが、雲に穴が開いてくれることは決してない。皮肉。かれこれ20分ほど経った。気まずい空気が肺を出入りしながら、僕の身体に気まずい酸素を運ぶ。
2021年5月26日、日本で見られる三年ぶりの皆既月食とのことだったが、関東はあいにくの曇り空だった。
月食という現象は地味だ。
同じ「食」でも日食の方は、空の明るさが劇的に変化するのでド派手。特に皆既日食の瞬間は昼間なのに空が真っ暗になるので、たとえ雲で太陽が隠れていてもその壮大な天体ショーを体験できるだろう。しかも日食は地球上で見られる場所もごくわずかなので、観測のベストスポットには世界中から天文マニアが集まってお祭りムードになったりもする。
一方で月食の方は、大体地球上のどこにいても見られるし、皆既月食の瞬間でも空の明るさが劇的に変化するということもないので、気づいたらいつの間にか終わっていたなんてこともあるだろう。そして雲で隠れたら最後、世界各地であの気まずい空気を量産することになる。しかも、パッと見は普段の月の満ち欠けと似たような感じなのでいまいち見た目のインパクトも薄い。ああ月食よ、なんて哀れなんだ君は。
いやしかし待ってくれ。月食にも面白いところはある。実は、影の見え方に注目するとむしろ月食の方が珍しい天文現象だと言えるのだ。まずは比較のために日食の例(左の図)を見てみよう。
左の図のように日食という現象は、月が太陽の光を遮ることで起きる。こんな風に、地球から見て近くにある物体が遠くの明るい光源を遮るのは、実は天文の世界ではありふれた現象だ。例えば右の図に示した「トランジット法」は、明るい星のまわりを周っている惑星が、その星の光を遮る様子を見るという有名な天文観測手法だ。光を遮る面積は日食よりずっと小さいけれど、これも影の見え方で言えば日食と同じタイプだと言える。他にも例えば、国際宇宙ステーションが月の前を横切る時に宇宙ステーションの形の影が見えるのも、影の見え方で言えば日食と同じタイプと言えるだろう。
じゃあ一方で月食はどうか。下の図を見てみよう。
月食は、地球の影が月面に投影されることで起こる現象だ。ところが、こんな風に地球の影の形をそのまま投影するスクリーンになってくれるような天体は、月以外には存在しない。基本的に空に浮かぶ星はほぼ全てめちゃくちゃ遠くにあるので、地球の影の形がその遠くの星に投影されているのを観測するなんてことはできないのだ。このように、観測者自身の影の形が天体に投影されたのを見るタイプの影の見え方は、天体スケールで見ると実はあまり例が無い。数少ない例を挙げるなら、図の右に示したような、探査機の影が天体上に投影された写真だろう。この写真は小惑星リュウグウに映るはやぶさ2の影の形を、はやぶさ2自身のカメラで撮影したものだ。はやぶさ2の特徴的な形がくっきりと影に映されていてなんとも美しい。こういう写真は、小惑星の上空を低空飛行している時でないと撮れないので、非常に珍しい写真なのだ。
はやぶさ2の運用室で初めてこの写真を見た時、僕も感動したのを覚えている。基本的に探査機から届くデータというのは、内部機器の温度とかタンクの圧力とかの数字の羅列なので、本当にその探査機が遠くの星を探査しているという実感は薄くなりがちなんだけど、それだけにこの写真の衝撃は大きかったのだ。本当に今はやぶさ2は探査機として遠くの宇宙空間で生きていて、今まさに小惑星の上を飛んでいるんだということを強烈に実感させられたのだった。自分自身の影を見るということはつまり、自分自身の存在を再確認するということなのだろう。そういう意味では、月食に投影された地球の影を見ている時もまた、僕らは地球自身の存在を再確認する絶好のチャンスというわけだ。何かと地味な月食だけど、このように影の見え方という観点で捉えると少しはありがたみが増すのではなかろうか。気まずい空気を量産するのも許してあげたい気持ちになってきたことだろう。
「雲越しですが、今見えますよ~」と後輩から連絡があったのは、あの気まずい時間から30分ほど過ぎた、夜21時ごろだった。予報では、皆既月食のピークは過ぎて月が半分ほど地球の影から出てきている頃だった。研究室ですっかり意気消沈していたところだったが、重い腰を上げてもう一度部屋を出る。なにせこの時間まで粘ったんだから、雲越しでもなんでも見ておかないと気が済まない。屋上までの2階分の階段を一気に駆け上がり、重い扉にグッと体重をかける。重い扉が、スローモーションで開く。
屋上へ出ると、思いがけず月は美しかった。
うおっ、と思わず大きな声が漏れたことに自分で驚く。雲越しではあったけれど、それはやわらかに月食の輪郭を保っていて、うっすらと月食特有の赤みを帯びながら光っていた。色の中で赤い光は一番地球の裏へ回りこみやすいので、月食の影は赤っぽく見えるのだ。階段を駆け上がって少しだけ乱れた呼吸を、ゆっくりと深呼吸に変えながら足場に腰掛ける。雲が流れている。そのゆるやかに流れる雲の濃淡に合わせて、月明かりもモニャモニャと形を変えている。屋上には他に誰もいなくて、なので、もう気まずくなくなった空気がすうっと澄まし顔で肺に流れ込んでくる。それが気持ちよくて、口を開けながらぼーっと空を見上げる。月はなおも雲に隠れ続けているのに、美しかった。
でも、なんだろう、これ。よく考えたら本当に美しいんだろうか。だってめちゃめちゃ雲に隠れちゃってるし。しかも食の状態ももう中途半端で、なんなら雲越しなので、「あれ普通の半月だよ」って言われたらそうにしか見えんだろうし。なんとなく赤い気もするけど、よく見たらそうでもない気するし。なんでこんなに一生懸命見てるんだろう。というかこんなんなら、普段の晴れてる時の月の方がよっぽど綺麗なんじゃないか。まあ確かに月食には、自分たちの存在を再確認できるという意味はあると思っているけれど、それ以上に感じているこの美しさの正体は何なんだろう。この美しさは、本当に本物だろうか。もし本物じゃないなら、僕は何を見て美しいと思ってるんだろうか。んーーーー。
なんなんだろう、これ。
その日から夏は静かに着実に深まっていった。今年の夏も、静かだ。冷房の効いた自宅には、ベタベタと湿気を帯びた空気は届かない。「次の夏には帰省とかできるんじゃない」なんて話していた去年の今頃の能天気さを白い目で俯瞰しながら引きこもっているうちに、体温と気温が噛み合わない日ばかりがサラサラと過ぎていった。月食からは、あっという間に3ヶ月以上が過ぎた。
週に一度、ボクシングジムに通っている。冷房の中で座ってばかりの月火水木で鈍った身体に刺激を入れるため、木曜や金曜の夜に通うのがいつものパターンになっている。夏の長い陽が落ちて、ちょうど月が見え始める時間帯。最近は短縮営業中だからか、行っても大体貸し切り状態の時間帯。運動着を着て、タオル、バンテージ、ヘアバンド、マスクを持って家を出る。今日は月は出ていないらしい。家の前の自販機で、110円で600ミリリットルの麦茶を買う。しぶとく飲める、スッキリした味。ジムに入る時は、道場などと同じくまず第一声は大きな挨拶から。その後、トレーナーである会長のおっちゃんにも挨拶。どうやら今日も貸し切りで、会長のおっちゃんと二人きりのようだ。ロッカーのカギを借りて、出席簿に名前とロッカー番号を記入する。なにやらスマホで電話をしていたおっちゃんはちょうど電話を終え、僕の方に向き直ると、険しい顔で言った。
「おい、そういえばお前、まさかワクチンなんか打たねえだろうなあ」
ジムでは、知らない洋楽を知らない外国人がカバーしたみたいなアップテンポな音楽が、10曲ぐらいのリピートで延々と流れている。やけに耳に残るのに、聞いたそばから抜け落ちていくような、ただこの貸し切り状態の広い空間を埋めるためだけに存在するような音楽、その声、その言葉たち、の合間を縫って、会長のおっちゃんがワクチンの危険性を説き始める、その声、その言葉たち、が僕の頭で反響し始める。
ロッカーに荷物を置いて、ストレッチを終えたら、バンテージを拳に巻いてシャドーボクシングを2ラウンド。鏡の前に立ち、リラックスして構える。鏡に映る自分の目の高さへジャブ、あごの高さへストレート。と同時に、鏡に映る自分の分身は影のようにパンチを打ってくるのでしっかりとあごを引いてガード。フォームの確認。自分自身の影を見るということはつまり、自分自身の存在を再確認するということだ。3分間、ウォーミングアップも兼ねてしっかり足を動かしてステップする、その一歩一歩、に合わせて出すパンチの一発一発、に合わせて会長のおっちゃんの言葉の一つ一つが反響する。スパイクたんぱく質、人体実験、だからよお、メッセンジャーRNA、書き換えてよお、毒、あのプロ野球選手もよお、死因、マスコミなんか、報道しねえからよお、国は補償なんか、反響、作ったやつが言ってんだからよお、正しいに決まって、百害、科学、一利なし、治験、恐いウイルスだなんて、反響、反響、俺は思ってねえから、ねえから、からよお。
そうかもしれない。そうなのかもしれない。無いのかもしれない、本当のことなんて。真実なんて。本当は、信じたいことが各々勝手にあるだけなのかもしれない。だからそう、あの日の月食だってそう。本当は美しくなかったのかもしれない。無いのかもしれない、美しいものなんて。本当は、美しいと思いたいものが各々勝手にあるだけなのかもしれない。だって美しくなければ困るから、気まずい時間を乗り越えてようやく見られた月食が、美しくあってくれないと割に合わないから。真実でなければ困るから、いつ始まっていつ終わるかもわからないこんな静かすぎる夏には、少しでもこの不安や憤りを和らげる事実が真実であってくれないと割に合わないから。
ボクシングというスポーツは、相手を打ちのめすためにひたすらパンチを打つものだと思われがちだけれど、実は攻撃よりも防御の方がずっとずっと難しくて重要だ。相手から距離を取るために打つジャブ、相手の突進を牽制するためのストレート、パンチを打つ時は必ずあごを引き、反対の手は高く保ってあごをガード、パンチする方も肩であごをしっかり守る。守るために打つ。実践練習では、それを生身の人間と対峙しながら練習する。リングに上がって、会長のおっちゃんとのマススパーリング。練習したステップを上手く取り入れながら、ジャブで距離を保つ。相手が右手を出せば左手で、左手を出せば右手で、鏡のようにパンチを受け流す。フットワークとジャブで様子を見ながら、隙を見て攻撃のストレートを打つ、と同時におっちゃんもカウンターのストレートを打ち返してくる。ジャブを打てば、ジャブを打ち返してくる。鏡のようだ。影のようだ。影を見るということはつまり、自分自身の存在を再確認するということだ。自分自身の姿をそこに見るということだ。そう。だから、相手にとっては自分も影だ。僕もきっと、おっちゃんと同じだ。命を守るためにワクチンを打つ僕も、命を守るためにワクチンを打たないおっちゃんも、影なのだ、お互いに。だから、ボクシングは決して喧嘩ではない。喧嘩ではありたくないと思う。
残り1分を切ると、打ち合いは激しくなる。ジャブ、ストレートのワンツー、ひとつフェイントを入れてボディストレート、左にターンしてロングフック。けれど身体のひと回り大きいおっちゃんには僕の打ったパンチはひとつも届かず、こちらのガードが下がった隙を逃さずおっちゃんの打った右ストレートが僕の左目に入る。ドーンと衝撃が来て、一瞬クラッとする。スパイクたんぱく質、人体実験、マスコミなんか、メッセンジャーRNA、報道しねえからよお。おっちゃんの言葉が反響する。でも、足を止めない。向き合うことをやめない。守るために打つ。でも、守るだけではなくて、本当は、できることなら、届けたい。打ち返したい。一つでも。相手にとって受け入れがたくても。だって、守りたいものがあるから。自分のことも、家族のことも、友達のことも、そしてできれば会長のおっちゃんのことも。それはきっとお互いにそうなんだけど、決して力で押し通すことなんてできないけれど、決して喧嘩ではないけれど、せめてラウンド終了のブザーが鳴るまでは届ける努力をしたい。手を伸ばしたい。喰らわせた瞬間は頭をクラクラさせるかもしれないけれど、感じている不安や憤りが同じなら、きっと伝わることだってある。だから、打つ。守るために打つ。そう、守るために、打ちたい。生きるために、打ちたい。僕は、打ちたい。自分のために、大切な人のために、打つ選択をしたい。打つ。スパイクたんぱく質、打つ、メッセンジャーRNA、打つ、人体実験、それでも、打つ、打つ、打つ。
やがて、ラウンド終了のブザーが鳴った。その日、僕のパンチがおっちゃんに届くことは、結局一度も無かった。
110円で600ミリリットルの麦茶は、トレーニング終わりにちょうど最後の一口を飲み終える。おまけの100ミリリットル分が入ってぴったりの、計算された量だ。仕上げの軽い筋トレを終えた後、クールダウンのストレッチをする。知らない洋楽を知らない外国人がカバーしたみたいなアップテンポな音楽が、会長のおっちゃんと僕しかいないこの広い空間を、相変わらず満たしている。その音楽にかき消されて紛れているけれど、少しだけ、ほんの少しだけ気まずい空気が、トレーニング後の僕の肺を出入りしている。
「おい、そういえばよお、」
会長のおっちゃんが口を開く。
「アポロってほんとに月に行ったのかよ」
「え。ああ~……」
少し拍子抜けな声が出る。僕はストレッチを続けながら、会長の方へ顔を向ける。
「まあ多分行ったんだと思いますよ」
「はっはっは、多分って何だよ。お前専門家なんじゃねえのかよ」
「いやまあなんか知らないですけど、一部は捏造とか言われてる映像もあるらしいじゃないですか」
「まああんな昔に月に行けたっつーのに、あれっきり全然行ってねえんじゃ、ほんとに行ったのかよって思うよなあ」
「ははは、まあそうですね~」
そうかもしれない。そうなのかもしれない。本当のことなんて、無いのかもしれない。ただ、信じたいことが各々勝手にあるだけなのかもしれない。
「まあでも僕は、本当に行ったって信じたいですね~」
今日は月は出ていないらしい。けれど、帰り道には少し空を見上げてみよう。本当のことなんて無いかもしれないんだから。本当は誰かの嘘かもしれなくて、見えていないだけかもしれなくて、ひょっとしたら、穴が開くほど見れば雲に穴も開いてしまうかもしれなくて、そしたら、雲の隙間からひょっこり月が見つかってしまうかもしれない。
きっと、その月は美しいんだろう。僕はその月を、美しいと思いたいんだろう。
宇宙を泳ぐひと
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