笑っちゃうぐらい壮大な宇宙と
何でもない生活の狭間を
溺れるように泳ぎつづける。
そんな宇宙を泳ぐひと
宇宙工学研究者の久保勇貴さんによる
連載エッセイ。
あれはたしか、ポケモンカードだったと思う。
そう、たしかそれは全種類のカードにキラキラ加工をしてあるようなカードだった。カードゲーム用のやつではなくて、お菓子のおまけかなんかでついてくるコレクションカード。ポケモンブームだった当時、幼稚園の友だちみんなで競うように集めていたんだと思う。
「ユウキ、お前のカード折れよ」
「そんままじゃ俺のカードと見分けつかんけんな」
たいちゃんはそう言うと、僕のキラキラのポケモンカードの四隅をグニッと全部折り曲げた。
「ほら、こうしたらどっちがユウキのカードか分かるけんよかやろ」
僕のピカピカだったポケモンカードの隅にはミミズみたいな折り目が4本ついた。たいちゃんはそれを見て満足そうな顔をしていた。そのとき僕がたいちゃんに何と言ったかはよく覚えていない。たしか、泣いたりはしなかったと思う。もしかしたら、たいちゃんありがとう、と言ったのかもしれない。思い出せない。ただ、たいちゃんの家の床に並べたキラキラのカードに、レースカーテンを透けてきた陽の光が一層キラキラ反射していたのを覚えている。
その窓際のことを、覚えている。
今日も自宅でのテレワーク。窓際のデスクに向かい、寝ぼけ状態でとりあえず10秒ぐらい朝日を浴びたら、パソコンのディスプレイに光が反射しないようにすぐにカーテンを閉める。さあ、設計をしなければいけない。上手くいけば再来年度に宇宙ステーションに飛ばす予定のロボットの、初期設計。今の見積もりでは規定の重量をオーバーしているので、なんとか重量を削った設計を提示しなければいけないのだ。重たい腰を上げ、重たい3D製図ソフトを立ち上げる。朝日から遮断された部屋のよどんだ空気を、パソコンのファンが懸命にかき混ぜている。僕も頭をかき混ぜながら案を練る。
宇宙機の設計における絶対的なルールは、とにかく制限重量を守ることだ。打ち上げロケットはギリギリまで重量を切り詰めて初めて宇宙まで飛ぶことができるので、当然そのロケットに乗る宇宙機の重量も「○○kgに抑えなさい!」とロケット側から厳しく言いつけられている。そして、その言いつけられた重量の中で各システムのバランスを絶妙に調整し、ちょうどうま~いこと全体のシステムを成り立たせることができて初めて宇宙機はミッションを行えるのだ。
例えば、同じく空を飛ぶ仲間の飛行機も、そういう重量配分を上手くやらないと飛ぶことはできない。「できるだけ軽く、流線形の機体にしますわよ、オホホ」とばっかり言っていたらヘロヘロの機体になってしまうし、「やっぱ最強のエンジンでパワー勝負っしょ!」とかイキってるとエンジンだけバカデカい機体になる。「万が一鳥とかがぶつかってきても壊れないように頑丈にしないと……」と心配ばかりしていると鉄骨ガチガチの機体になる。限られた重量を、翼にもエンジンにも胴体にも全てに絶妙にバランスよく配分できて初めて飛行機は空を飛ぶことができるのだ。こういう重量配分は限られた資産(リソース)を配分していくのに似ているので、その配分可能な全重量のことを「重量リソース」と呼んだりする。
宇宙機の場合でも、
「よし、あの小惑星の砂を取って来よう!」
「その小惑星行くには燃料をこれぐらい積んでくれ」
「じゃあこのカメラも絶対に載せたいです」
「あ、でも着くまでにコンピュータが壊れたら全部パーだし、予備が欲しいな」
「いや、予備の余裕は無いから性能悪いけど壊れにくいコンピュータで我慢やで……」
「あの~採取した砂をこの装置でその場で分析したいんですけど」
「いや、その装置載せるならカメラは無しにしないと無理だな……」
「それなら往復じゃなくて片道で燃料節約できません?」
「いや、絶対に往復しなきゃ駄目だ!」
「ごめん、じゃあもっと燃料節約する行き方計算してくれない?」
「いや出来るけど、時間が倍かかるから故障確率かなり上がるで」
「うわあああああ」
と泣く泣く色んなトレードオフをしながら設計を行っていく。特に宇宙空間は熱や放射線で機器が壊れやすく、しかも一回壊れたら基本的に二度と修理には行けないという厳しい世界なので、その中でいかに巧妙に重量リソースを配分してミッションの成功率を高めていくかが重要になる。宇宙工学と言うと「世界最高性能の機器を全部詰め込んでやるぜ!」というイメージがあるかもしれないけれど、実際には現実的な安全策を優先したり、機能を切り捨てたりという決断の繰り返しなのだ。
ただ、これは宇宙機に限った話でもない。よく考えると世の中のものなんて大概、限られたリソースをうまく配分できて初めて成り立つもんだ。例えば人間だって、消化吸収した食べ物から体内で生み出せるエネルギーのリソースは限られていて、そのリソースを脳にも筋肉にも内臓にも眼にも鼻にもうま~く配分することで生き物としてのシステムが成立している。「眼が2つよりも3つの方がたくさん見渡せるから強くね?」とか思うかもしれないけど、眼が増えたらそれだけ眼に使わなきゃいけないエネルギーは増えるし、3つの眼球からの映像を処理するには脳みそにももっとエネルギーが必要になる。犬のように鋭い嗅覚も、猫のように敏感な聴力も、持っていれば何かに有利なのかもしれないけれど、それだけリソースを割かなければいけなくなるのだから必ずしもあった方がいいとは限らない。進化の可能性は無限だけど、リソースはいつでも有限だ。今現在の人間という生き物が最適な生き物なのかどうかは知らんけど、少なくとも人間は、無限の可能性の中から有限のリソースで成立できる一つの具体例として設計されている。つまり設計というのは、可能性を切り捨てていくことだ。自分のリソースの限界を受け入れて、折り合いをつけていくことだ。
だから設計は難しい。相変わらず僕のパソコンのファンは懸命に熱気をファンファンかき混ぜていて、僕も頭をグワングワンかき混ぜながら設計案を練っている。
あの日、ミミズのような折り目のついた僕のポケモンカードを見て、母ちゃんは僕の代わりに怒ってくれた。息子が大事にしているカードを全部折り曲げてしまったたいちゃんに対して。けれども僕は平気だと言った。こうすればたいちゃんのカードと僕のカードの見分けがつけられるから。そうしたほうがいいってたいちゃんが言ってくれたから。僕もそれでいいよってたいちゃんに言ったから。僕はたいちゃんのことをかばった。それを聞いて、母ちゃんは少し言葉を詰まらせていた。
両親が共働きだったのだろうか、たいちゃんはいつもおばあちゃんの家にいた。そのおばあちゃんはたいちゃんのことを甘やかしていた。たいちゃんが欲しいと言ったものは何でも買ってあげていた。だから、たいちゃんは僕の家では買ってもらえないおもちゃをたくさん持っていた。ゲームボーイのカセットも、ポケモンのキラキラカードも遊戯王のカードも、僕よりたくさん持っていた。
僕はたいちゃんとよく遊んでいた。僕より2つぐらい年上のたいちゃんは、年齢の近い兄ちゃんのように僕と遊んでくれた。たいちゃんは僕によく意地悪をした。たいちゃんはちょっぴり悪い遊びも知っていた。行っちゃいけないと言われているところにも僕を連れて行った。たいちゃんと遊ぶのが楽しくて一緒にいたのかは、よく分からなかったような気がする。
そう、愛も、有限なんじゃないかと思う。人間が与えられる愛の量や、消化吸収できる愛の量には限りがあるんじゃないかと思う。その限りある愛をお互いにうまく分け与え合いながら、人間は生きているんじゃないかと思う。愛の可能性は無限だけど、愛のリソースは有限なんじゃないかと思う。だから人生設計とは、無限の愛の可能性を、有限に収められるように切り捨てていくことなんじゃないかと思う。
ある日の夕方、帰り道、僕と母ちゃんが一緒に歩いているところに、コンビニへ向かう途中のたいちゃんが通りかかった。
「ユウキ、今からコンビニ行くっちゃけど」
「遊戯王おごっちゃろうか」
たいちゃんは、おばあちゃんからもらったたくさんのお小遣いを持っていた。遊戯王カードが一度に10パックも買えてしまうぐらいの、たくさんのリソースだった。母ちゃんはすぐさま僕の手をグッと強く引くと、「ごめんね、もう帰らなきゃいけないの」と早足で僕を家まで連れて帰った。そのとき母ちゃんは、あんまり見たことない顔をしていた。多分、悔しいという名前をした怒りだった。僕にはどうして母ちゃんがたいちゃんの誘いを断ったのかよく分からなかった。せっかく遊戯王カードをおごってもらえそうだったのに、残念だと思った。夕方だった。家の前の通りに差した夕日は版画のように克明に街の陰影をなぞっていて、そのオレンジ色に染まった通りの先へ、たいちゃんは一人で消えていった。
たいちゃんは、愛を受けていたんだろうか。愛を吸収できていたんだろうか。おばあちゃんからの愛を。両親からの愛を。愛のリソースは有限なんだと思う。体内で消化吸収できただけの愛しか、正しく人に与えることはできないんだと思う。もしかしたら、たいちゃんはおばあちゃんからの愛で溺れていたんだろうか。吸収できないほどの愛を与えられて消化不良だったんだろうか。だから僕にカードをおごろうとしたんだろうか。嘔吐のように無理やりにでも愛を吐き出さないと、息ができない状態だったんだろうか。母ちゃんはその愛の正しくなさを分かっていたから、遊戯王をおごってもらうのを断ったんだろうか。あの時、ミミズみたいな折り目のついた僕のポケモンカードを見て母ちゃんが怒ってくれたのは、僕に対する愛だったんだろうか。だとしたら、僕がたいちゃんのことをかばった愛は、母ちゃんから受け取った分の愛だったんだろうか。それならば僕はまた、余計な愛でたいちゃんを溺れさせてしまっていたんだろうか。
愛の乏しい一人暮らしに、スーパーのお惣菜は数時間分の愛を供給してくれる。じゃがりこのたらこバター味はいつ食べても僕を愛で満たしてくれる。わさビーフもそう。2リットルのお茶も、コンビニの半額で買えるから愛。これも愛。それも愛。お金で買える愛。僕の買い物カゴは愛で満たされていく。毎週日曜日は何もしなくてもポイント5倍だったのに、いつからかポイントアップ優待券を出さないとポイントアップしてくれなくなった。優待券は決まった日にしか使えなくて、財布に入れておくとかさ張る。それなのにせっかく優待券を出してもポイント3倍にしかしてくれなくなった。多分もう僕には買いに来ないでほしいんだと思う。だから、せめてカゴに満たした愛だけは失われてしまわないように急いでレジ袋に詰める。レジ袋も前まではたくさんもらえたのに、今はお金を取られる。多分もう僕には買いに来ないでほしいんだと思う。このスーパーはもう、僕に愛を与える余裕は無いんだと思う。このスーパーも、愛のリソースが足りていないんだと思う。
袋詰めを済ませて外に出ると、横断歩道におじさんが倒れていた。
その横を、数人の人と数台の車が通り過ぎていた。やがて一台の車がその近くに停まって、倒れているおじさんの近くに駆け寄った。おじさんは全く動いていなかった。走った。僕は。愛の足りないスーパーへ急いで戻った。AED、このスーパーにありますか。あそこの交差点で人が倒れてて。はい、AEDはサービスカウンターにございます。走った。レジ袋にパンパンに詰め込んだ愛は重たくて、僕が一歩踏み出す度にビニールの持ち手が指に食い込んだ。こんなに重たい愛を、僕は家で一人で消化しきれるんだろうか。それでも、走った。すみません、交差点で人が倒れてるんでこのAED持っていきますね。サービスカウンターのおばさんは驚いた顔をしていた。僕はそのAEDとレジ袋いっぱいの愛を握りしめてまた走った。レジ袋は指にどんどん食い込んでいた。AEDには、赤いハートのマークが書いてあった。
僕は今、あの知らないおじさんに愛を与えようとしているんだろうか。どうして、貴重なリソースをわざわざ割こうとしているんだろうか。一人暮らしの生活はこんなにも満たされていないのに、どうしてそれでも愛を与えようとしてしまうんだろうか。リソース配分は、大丈夫だろうか。だって設計は、無限の可能性を有限に収めていくことだ。自分の手に負えない愛は、切り捨てるしかないんだ。なのに、どうしてなんだろう。どうしてまだ可能性を切り捨てようとしないんだろう。全然愛は足りていない気がするのに。
信号待ち。倒れていたおじさんは尚も動く様子はなく、その周りを2~3人の人が取り囲んでいた。女性が電話で救急車を呼んでいる。
「あのー!AED持ってきましたけど、要りますかー!」
交通量の多い道路を挟んで、声をかけた。
「呼吸はしてるみたいなんで、多分大丈夫だと思いますー!」
「分かりましたー、一応持っていきますねー!」
知らないおじさん。何の関係もない通りがかった数人が、倒れているおじさんの安全を確認しようとしていた。
「呼吸数、1分15回ぐらいなんで正常ですね」
「脈も大丈夫そうです」
「ちょっと、道路に出てると危ないんで、首をなるべく動かさないように移動させたいです!」
「腰の部分、もう一人誰か持ってもらえますかー!」
僕の生活に、本当に愛は足りていないんだろうか。もしかしたら、僕も愛で溺れてしまっているんだろうか。たいちゃんと同じなんだろうか。きちんと消化できていないだけで、僕はもう既にたくさんの愛を与えられているんだろうか。だとしたら、あのスーパーもそうだろうか。このおじさんも、そうだろうか。
「じゃあ、せーので持ち上げますね」
「いきまーす、せーのっ!」
陽はまだ高かった。天気の良い日曜日のお昼。天を仰ぎたいぐらい気持ちがいい青空なのに、僕はおじさんが静かに横たわる地面に目を落としていた。そこに、陽の光が差していた。おじさんの荒れた肌は表面がギザギザしていて、そのささくれだった白い皮膚に陽の光がキラキラ反射していた。
だから、たいちゃんの家の、あの窓際のようだった。
宇宙を泳ぐひと
宇宙を泳ぐひと