【エッセイ・宇宙を泳ぐひと】第3回 ブラックホールたちの恋

2020.04.17

久保勇貴

笑っちゃうぐらい壮大な宇宙と
何でもない生活の狭間を
溺れるように泳ぎつづける。

そんな宇宙を泳ぐひと
宇宙工学研究者の久保勇貴さんによる
連載エッセイ。

ある小さな講演会で、重力波の研究者の方からお話を聞いていた時だった。

「ではちょっと、重力波の音を聴いてみましょうか~。」

彼は、いかにも聡明そうな鋭い目つきからは想像できないくらい朗らかな口調でそう言うと、短い動画を再生した。それは、ザーッというノイズの裏で一瞬「ピヨッ」と気の抜けるような音が流れる動画だった。

ザーーーッ、ピヨッ。 もう一回。 ザーーーッ、ピヨッ。 終わり。

……うん。なんじゃこりゃ。なんだかものすごく拍子抜けだ。こんなのが重力波の音なのか。いやだって重力波っていかにも「重力粒子波動砲」みたいな響きしてるじゃん。ゴゴゴゴゴ……!!って感じの重低音だと思うじゃん。「艦長、11時の方向より重力波来ます!避けられません!!」「えぇい!総員、強い衝撃に備えよ!!」みたいなやつ期待するじゃん。なんだよ「ピヨッ」って。全然攻撃力無さそうじゃん。そんなんじゃ宇宙戦艦なんか撃墜できねえぞ。

期待が大きく外れてがっかりしている僕をよそに、彼はなおも朗らかに解説する。

「これは重力波の信号を、分かりやすいように音波に変換したものなんですね~。」

https://youtu.be/TWqhUANNFXw

ザーーーッ、ピヨッ。ザーーーッ、ピヨッ。

彼は説明を続ける。

「この『ピヨッ』という音のことを、チャープって言います。あ、チャープってのは、『鳥の鳴き声』っていう意味ですね~。」

「このチャープがまさしく、重力波の信号である証拠なんですね~、は~い。」

ほお、「鳥の鳴き声」なんて名前が付けられているのか。世界最高の実験施設で働く一流の研究者たちが「オーマイガッ!重力バードのベイビーちゃんが鳴きやがったぜ!」とか言ってる姿が頭に浮かぶ。かわいい。どうやらこの、周波数が高くなりながら徐々に振幅が大きくなっていく波形が、重力波の信号であることを示す証拠だそうだ。イカツイ波動砲のイメージから一転、僕の頭の中ではリズミカルに歌う重力バードたちがピヨピヨ飛びまわり始める。

「我々が観測した重力波は、地球から13億光年離れた2つのブラックホールが合体した時のエネルギーで発生したんです。」

「2つのブラックホールがお互いのまわりをぐるぐる周りながら段々と近づいていって、やがて極限まで近づいた時に一瞬で衝突合体して、重力波が発生するんですね~。」

https://youtu.be/zLAmF0H-FTM

強い重力で引かれあいながらお互いのまわりをぐるぐる周る2つのブラックホール。それらは回転スピードを徐々に増しながら近づいていく。そしてそのスピードが最大まで高まったところで一瞬のうちに衝突合体し、1つの重たいブラックホールになるのだ。衝突の膨大なエネルギーは重力波に変わり、はるばる13億年かけて僕らのもとに届いて、そして、ザーーーッ、ピヨッ。というわけだ。

ドラマのようだ。社交ダンスを踊るかのように、手を取り合ってぐるぐる周る二人のブラックホールたち。周りのお星さんたちのことなんか視界にも入らず、ただ目の前の人だけを見つめて踊りながら、二人は徐々に距離を縮めていく。回転スピードが増す。熱量が増す。そしてその熱量が最高潮に達した瞬間、ものすごい衝撃とともに突然彼らは目の前の恋人を失うのだ。残されるのは、合体によってやたらと肥え太ってしまった自分と、「ピヨッ」という能天気な重力バードの鳴き声だけ。激しい嵐のような大恋愛のクライマックスに突如訪れる独りの朝、呑気な小鳥のさえずり。二人の身体が完全に一つになる念願の瞬間、幸せな夢は突然の終わりを告げるのだ。ブラックホールたちの恋は虚しい。

何かに完全に到達してしまったり、何かを完全に自分のものにしてしまうことが、なんとなくこわい。結構昔からこの恐怖がある。どうしても手に入れたいもの、美しいものに近づこうとしている時はあんなに夢中で、周りのことなんか全然視界に入らないくらい必死で追いかけてしまうのに、手に入れた瞬間に何かをふっと、いやピヨッと失ってしまう恐怖。試着室ではあんなにイカして見えたジャケットが家で改めて見るとそうでもなかったりする時の。隣のクラスの子に一目惚れして懸命にアタックして、いざ付き合い始めたら「あれ、なんか違うな……」と思ってしまったりする時の、それ。すっごくキラキラしていたはずなのに、手にした瞬間にありきたりな色に変わってしまう、それ。それがこわくて、そういえば今年も桜の写真を一枚も撮れなかった。研究所の門をくぐって突き当たりにある大きな桜の木。満開の、これ以上ないシャッターチャンスを前にして、僕はただそれを毎朝10秒ぐらいボーっと眺めるだけで、ついに写真には収められなかった。こわかったのだ。軽はずみに写真に収めてしまってはいけない。手に入れようとしてはいけない。手に入れてしまった瞬間に、iPhoneに焼き付いてしまった瞬間に、この桜との関係は頂点に達して、そして突然終わってしまう。ザーーーッ、ピヨッだ。そしてきっとそのピヨッにも僕は気づけない。気づけないまま満足げにiPhoneをポケットに入れて、通り過ぎてしまう。それがこわい。別に桜の写真を撮ったからってワニが死ぬわけでもないのに、やっぱりどうにもそれがこわいのだ。同じ理由で、きれいな景色も美味しい料理もこわくて写真に収められない。いや、こわいのかも本当はよく分からない。なんかもう絶対に写真に収めてはならん!収めたら死ぬぞ!とすら思っている。もはや強迫観念に近い。

そう、昔、短歌を作った。

22:30を10:30と書くそのぐらいの違いがあって肩が寄り添う

ある夜、一緒に家で映画を観ようと恋人と話していた時、彼女は「じゃあ10:30からね!」とLINEしてきて、その瞬間なぜだか僕は「ああ、これはこの人と決定的に分かり合えないことなんだ」と強烈に直感したのだった。僕はいつも絶対に22:30と書くからだ。彼女が22:30を10:30と書いた、たったそれだけのしょうもないことだったけれど、その時の僕にはどうにもそれが僕ら二人の決定的な違いのように映ってしまった。なんだか急に、彼女が遠く知らないところに行ってしまうかもしれない、と感じてしまった。そしてそれは寂しいことだと思った。

ただそれでもやっぱり、自分に都合の良いように相手を変えようとしてはいけない、自分の手中に収めようとしてはいけない、違いは違いのまま受け入れて寄り添いたいと、戒めるように短歌に封じ込めたのだった。だって戒めていないと、つい手を伸ばしてしまうから。自分とは決定的に違うものを、自分のものにしようとしてしまうから。そして、もし無理やりその違いを無いものにしてしまったら、きっと気づかないうちにピヨッと失われてしまうものがあるはずだから。あるに違いないから。あるに決まってるから。ないとダメだから。やっぱり強迫観念だ。

本当は分かり合いたかったんだろう。でも、それはやっぱりこわかったんだろう。その人とは、去年別れた。

22:30を10:30と書くそのぐらいの違いがあって肩を寄り添えない時は、どうしたらいいんだろう。夜、ひとり爪を切りながら思う。パチン、パチンと爪が飛んで、今日も誰にも会わなかったなあと思う。この町でも、このアパートでも、今日もたくさんの人がひとりなんだろう。誰とも肩を寄り添えずにいるんだろう。「緊急事態」のどデカい四文字にもたれかかって、僕らの肩は引き離されている。こんな時、どうしたらいいんだろう。誰とも肩を寄り添えない時、決定的な違いに触れることすら許されない時、手に入れたいものに近づくことすらできない時、どうしたらいいんだろう。手を伸ばしたくなる。手に入れたくなる。こんなことなら、桜の写真を撮っておけば良かった。こんなにも引き裂かれるなら、いっそ全てを手に入れておけばよかった。全て欲しい。全てになってしまいたい。好きなもの、憧れるもの、全部自分のものにしたい。ピヨッと何かを失う葛藤すら許されない時、僕は美しいものを全て自分の中に取り込みたくなる。

ほら、楽になれよ。手に入れちまえよ。手に入れて、俺が『ピヨッ』と鳴いて、それで終いだぜ。

さっきまで呑気にピヨピヨ鳴いていた重力バードが不敵な笑みを浮かべている。

ゆっくりと呼吸をして、集中しながら左手の爪を切る。ゆるやかに湾曲した小指の爪を、爪切りの刃でぎゅうっと平らに押しつぶす。その歪みが一気に解放された瞬間に、爪の欠片はパチンと飛んで、さっき捨てたばかりのベタベタな納豆の容器の中にペトッと落ちた。

ああ、僕は、綺麗になりたいんだなあ。

そうだ、あれは初めてマニキュアを塗ってもらった時だ。そのとき僕はとってもうれしかった。当時仲のよかった友達の家に遊びに行った時だ。まだ僕は幼稚園生だった。その友達の2、3歳上のオマセなお姉ちゃんがちょうどマニキュアを塗っていて、それを僕にもこっそり塗ってくれたのだ。たしか左手。小指の爪1つだけ。緑色だった。綺麗だった。生まれて初めて鮮やかな色を灯した自分の爪を見て、僕はうれしくってピョンピョン飛び回った。飛び回りながら母ちゃんに見せびらかした。綺麗になった僕を、僕は母ちゃんに見せたかった。それを見て母ちゃんは「綺麗だねえ」って言ったんだっけ。「女の子みたいだからやめて」って言ったんだっけ。思い出せない。思い出せないけれど、とにかく僕はうれしかったのだ。僕はあのとき綺麗だった。

床に落ちた爪の欠片をポソポソ拾う。ゴミ箱に捨てる。爪の欠片は踏むと痛いから。爪の切り跡の交差点にできた鋭いカドを、爪切りに付いたやすりで削る。カドがあると頭を掻いた時に痛いから。洗面台に向かう。歯を磨く。歯を磨かないと虫歯になるから。鏡に自分が映っている。鏡の前に立っているから。頬っぺたに1本だけ変なヒゲが生えていてムカつく。変なヒゲというのはやたらと威勢よく伸びてくるくせに、伸びたら伸びたで「あのー、これからオイラはどうすればいいですかね?」とでも言いたげに佇んでいるから。「お前、そんなところに1本だけ生えてきて何がしたいわけ!?中途半端に生きてんじゃねえよ!」とヒゲに説教をする。ムカつくから。ヒゲは知らんぷりをしている。あの日以来一度も、僕はマニキュアを塗っていない。男性だから。

欲しいままに綺麗を全て手に入れたら、どんな感じだろう。ツルンと弾力のある長い髪の毛をサッと耳に掛ける感覚とか、真っ白なワンピースを頭から被る瞬間の感覚とか、どんな感じだろう。大好きな緑色の爪にトップコートを塗る感覚とか、どんな感じだろう。

「楽になれよ。手に入れちまえよ。」

「2つのブラックホールがお互いのまわりをぐるぐる周りながら段々と近づいていって、やがて極限まで近づいた時に一瞬で衝突合体して、重力波が発生するんですね~。」

「中途半端に生きてんじゃねえよ」

「ではちょっと、重力波の音を聴いてみましょうか~。」

ザーーーッ、ピヨッ。

うん、そうだねえ。中途半端だねえ。

手に入れたいけれど、きっと手に入れた瞬間に失うものがある。あるに違いない。あるに決まってる。ないとおかしい。ないとダメだ。だから、頬っぺたに1本だけ生えた変なヒゲを今日も取り除く。

そういえば今日も、誰にも会わなかった。

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この記事を書いた人
久保勇貴
東京大学大学院 航空宇宙工学専攻 博士課程。JAXA宇宙科学研究所にも籍を置き、様々な宇宙開発プロジェクトに携わる駆け出し宇宙工学者。 自身のブログ『ハルに風邪ひいた』『コンパスは月を指す』で宇宙を軸としたりしなかったりする文章を書く。 Twitter: @AllAstroDream
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