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【エッセイ・宇宙を泳ぐひと】第2回 父ちゃんとじいちゃんとコロナと太陽

2020.03.21

笑っちゃうぐらい壮大な宇宙と
何でもない生活の狭間を
溺れるように泳ぎつづける。

そんな宇宙を泳ぐひと
宇宙工学研究者の久保勇貴さんによる
連載エッセイ。

夜空に輝いている星は、全て太陽だ。

そのことを教えると、父ちゃんは口をポカーンと開けたままフリーズしてしまった。どうやら僕が言っていることの意味が理解できなかったらしい。あれは僕が高校生の頃だった。夜、外で二人で何かを待っている時に、何気なくそんな話をしたのだ。いつどこでそんな話をしたのかはあんまり覚えていないのだけれど、処理落ちパソコンみたいな父ちゃんのあの表情だけはやけに鮮明に覚えている。自分の見ていた世界を突然ひっくり返されてしまった驚きと、新たな世界に放り込まれてしまった興奮とが混じったような、人間くさいフリーズだった。

夜空に輝いている星は、全て太陽だ。

そう、知っている人には当たり前のことだけれど、僕らが見ている星は近づいてみれば全て太陽なのである。もちろん火星や金星などご近所の惑星は太陽の光を反射して光っているので例外だけれど、それ以外の星は全て恒星だ。つまり我々の太陽と同じように灼熱に燃え盛り、自ら光を放つ天体である。それってたしかにちょっとびっくりすることだ。クールな澄まし顔でチラチラ光るお星さまと、ギラギラ暑苦しく熱をまき散らすお日さま。竹野内豊と松岡修造ぐらいの温度差に見えるそれらが実は同じ正体だなんて、たしかにちょっとびっくりしてしまう。あの時、僕の言っていることの意味が理解ができずに処理落ちしてしまった父ちゃんの気持ちも分かる。

父ちゃんはあの後フリーズから融けると、しばらく黙ったまま星空を見上げていた。相変わらず口をポカーンと開けながら、じっと星の光を見つめていた。約50年間、父ちゃんにとって星は温度感の欠如した「星」という物体にしか見えていなかったのだろう。本当はその光ひとつひとつが全て灼熱の太陽なのだと知ったその瞬間、父ちゃんの横顔はいつもより少しだけ宇宙に近づいていた。父ちゃんの目にはたくさんの生き生きとした生命の灯が映っていた。父ちゃんは、無数の太陽に囲まれていた。

 

 

太陽は、僕らの生活に大きな影響を及ぼしている。太陽が見えている昼間はなぜだか自信が湧いてきて無敵な気がしてきたり、逆に太陽が見えなくなったら急に人恋しくなってしまったりとか。昼間は誰よりも仕事熱心な上司が、夜になると急に小洒落たバーでムーディーな雰囲気を漂わせてしまったりとか。斜め10度ぐらいを向いてカウンター席に座り、ソルティドッグの塩を色っぽく舐めてしまったりとか。他にも太陽活動が激しくなる時期には電波の通信障害が起こったり、北欧ではオーロラがいつもよりたくさん見られるようになったりとか。太陽の一挙手一投足は、僕らの地球を大きく揺さぶってくる。だから、太陽は今でも天文学の一大研究テーマだ。つい最近でもNASAがパーカーという太陽探査機を新たに打ち上げるなど未だに注目度が高い分野である。

太陽研究での長年の問題は、太陽上空のプラズマ大気の温度の謎だ。太陽の中心は1500万℃とめっちゃクソ熱くて、そこから表面に行くにつれて温度は6000℃ぐらいまで下がっていくのだが、なぜかそのさらに上空にある一部のプラズマ大気はまた100万℃まで急激に温度が上がっているのだ。たとえるなら、コールドストーンアイスでじゅうじゅうとステーキが焼けてしまうような感じか。いや違うか。まあとにかく直観的にもなんだか不思議な現象である。この謎を説明する有力な説はあるものの、決定打となる説明はまだ無い。NASAのパーカー探査機もこのプラズマ大気の謎を明らかにすることが1つの大きなミッションになっているのだ。あ、そういえばこの太陽上空の灼熱のプラズマ大気のことを太陽コロナと言う。「コロナ」だ。

 

 

そう、コロナだ。コロナ。コロナ、やばい。世界各地で、大きな混乱が起きている。やばい。

さいわい体力のある人間はさほど重篤化しないそうなので、僕ら世代にとっては自分が感染したらやばいというよりも、僕らの活動が止められてしまうことがやばい。僕自身も研究所で企画していたイベントの当日に中止命令が出されて色々と面倒な目に遭ったりした。僕の場合はイベントができなくてまじファック、ぐらいで済ませられたけれど、友人の演劇人たちなんかはマジでやばい状況だ。彼らの命を繋いでいる表現活動の場が本番直前に閉鎖になり、大赤字を喰らっている。彼らの悲痛な叫び、無念の思いを見ていると本当につらい。「不要不急なら自粛して」は確かにそうかもしれないけれど、表現活動は彼ら個人のレベルではいつだって必要で、いつだって急を要することだ。なにより演劇で飯を食っている彼らにとってそれはただの遊びや娯楽でなく立派な経済活動である。「会社に行くことは経済活動なので、満員電車は仕方ない!」という意見にはどうも違和感を覚えてしまうし、もしもこの自粛ムードが「みんなが困っている時にイベントをやるのは不謹慎だ!」という例の同調圧力で加速されるようなことがあれば、僕は強くNOと言いたい。9年前のちょうどこの時期、不謹慎という言葉がたくさんの表現を殺してしまったという記憶は、未だに僕の脳みその生温かい部分にこびりついている。

 

 

けれど。そうは言っても。やっぱり命に代えられるものは決して、決して無い。

 

「もう、私もたくさん病気を持っていますからねえ。困りますよ。」

「今はほとんど外に出ることはないですけどね、どこから病気が飛んでくるか分からんでしょう。」

「困りますよ。困ります。」

誕生日祝いのためにかけた電話で、じいちゃんは僕にそうぼやいた。ばあちゃんが死んでから17年、「勇貴が大学を出るまでは何としても死なないですよ」と口癖のように言い続けて一人で生きてきたじいちゃん。そんなじいちゃんが電話越しに手渡してくる日々の不安を両手いっぱいに抱えた僕は、そうだね、と肯定するので精いっぱいだった。そうだ。僕にとっては大した病気でなくても、じいちゃんには致命的だ。僕だってもしコロナが、「感染したら5分の1の確率で死ぬ病気」だったとしたらさすがにこわい。そういう恐怖をじいちゃんは味わっている。そして他にもたくさん味わっている人がどこかにいる。そして、それぞれの人にまだ生きたい理由がある。もし人が大勢集まるイベントから感染が拡大していき、じいちゃんの世代にも大量に感染者が出てしまうことになったら取り返しはつかない。

じいちゃんは今年も無事に誕生日を迎えられたけれど、それは全然当たり前じゃない。そのことを、じいちゃん自身が一番実感しながら懸命に生きているのだと思う。そんな切実な思いに触れてしまうとやっぱり、命に代えられるものは決して、決して無いと思う。

 

 

みんな太陽だ。人間はみんな灼熱の太陽だ。太陽の一挙手一投足が地球を揺さぶるように、身近な人たちの苦しみは僕を激しく揺さぶってくる。Twitterに流れてくる友人たちのイベント中止の知らせにやるせなさを感じているのと同じ頭の中で、じいちゃんのあの困り果てた声がわんわん反響している。みんな必死だ。みんな命を削ってこの瞬間を燃えている。そんなたくさんの太陽に囲まれて、僕はただその灼熱の中を体育座りで耐え忍ぶことしかできない。みんな大切だからこそ、何の言葉もかけられない。そうだね、と肯定することしかできない。お医者さんのように命を救うこともできない。無力だ。宇宙機を美しい軌道で飛ばしても劇団の損失は無くならない。太陽コロナの謎を解明してもコロナの感染は止まらない。無力だ。実に無力だ。

 

 

 

 

灼熱の炎は勢いを増している。制御が利かなくなった炎が集まって大きな火柱が上がる。ネットが、炎上している。僕は眉間にぎゅうぎゅうに寄せたシワを悲しくなぞりながらその言葉たちを眺めている。

 

「なんで僕らは我慢しているのに年寄りは平気で出歩いてんの?」

「若者より老人を外出禁止にしろ!」

「休校の小学生を外出させるな!」

「親がバカだから子供が出歩くんだろ」

「ジジイ濃厚接触1406人とかクッソwwww」

「今の若い連中は危機感が無さすぎる」

「皆が自粛中のこんな時に卒業旅行なんて社会人失格だ」

「誰だよトイレットペーパー買い占めてるやつ。しね」

「買い占め老害はいらん」

「弱者なら弱者らしく淘汰された方が自然だろ」

「あれ?老害がバッタバッタ死んでけば全て解決でね?」

「いいから中国は謝れよ」

「だから中国は嫌いなんだよ」

「コロナが終息しても引き続き中国人の入国規制よろしく」

「私たちの税金で買ったマスクをなんで朝鮮人に渡すの?」

「さいたま市は犯罪国家を支援した!」

「スパイ養成学校にマスクを渡すな」

「どうせ国に横流しにするんだろ」

 

人間は、みんな太陽だ。どんなに暗い六等星でも太陽だ。どんなに温度感の欠如した存在に見えても、命を削りながら懸命に燃える太陽なのだ。そのことを忘れてはいけないと、強く強く思う。

だって顔も名前も知らない人間はこわい。聞き慣れない言語は、聞き慣れないというだけで耳障りだ。耳障りな言語を話す人たちは、なんだかうっとうしい。それはそうだ。そういうものだ。分からないものはやっぱりこわい。「ちょっとお得意先の電話対応よろしく。相手はペゴロモゴロ語しか喋れないから頑張って」とか言われたら泣きそうになる。だってこわいもん。そんで、もし相手がペゴロモゴロ語がさも公用語かのようにベラベラ話してきたりしたらキレそうになる。だってむかつくもん。だから適当な、温度感の欠如した名前でくくって遠ざけたくもなる。「これだからペゴモゴ野郎は!」とか言い捨てたくもなる。分からないままはこわいから、悪者だと決めつけてでも安心したくなる。

でもだからこそ、想像することを決してやめてはいけない。「若い奴ら」「年寄り」「中国人」「朝鮮人」とくくってしまうことで失われてしまう温度感を、想像力で補わないといけない。相手も自分と同じ理由で懸命に生きたいと思っているかもしれないと想像しなければいけない。電話対応ではむかついたペゴモゴ野郎も、会って話してみたら案外自分と変わらない奴だったりするかもしれない。案外同じようなことを考えていたりするかもしれない。同じようにむかついていて、同じようにこわがっていて、同じようにお腹がすいて、同じように風邪をひいて、同じように涙もろくて、同じようにエロくて、同じように自分のじいちゃんを愛しているかもしれない。「年寄り」だって同じかもしれない。「朝鮮人」だって同じかもしれない。僕はその想像力を信じている。あの日の父ちゃんの横顔を信じている。たくさんの太陽を想像して少しだけ宇宙に近づいていた、父ちゃんのあの横顔を信じている。

僕は無力だ。劇団は赤字だ。ウイルスは容赦ない。励ましの言葉すらかけられない。アンパンマンは助けてくれない。全員をハッピーにする方法なんか無い。けれど、今この瞬間から想像することはできる。分からないものを、分からないまま肯定することはできる。この大混乱の中で僕にできることはそれしかない。それしかないけれど、それがあればきっと少しだけ、他者への攻撃を踏み止まることができると思う。少しだけ、「死ね」「うざい」「消えろ」を躊躇することができると思う。だから、想像力を信じている。僕は、想像し続ける。

 

 

 

 

 

研究所を出る。夜22時。自転車を漕ぐ。寒い。5000円で買った安物のコートは一ヶ月でほぼ全てのボタンがちぎれてしまった。なんでだ。まあ安物だからか。ボタンが留められず、仏像でもないのにご開帳状態になっている僕のおなかに、冬の夜風は容赦なく吹き付ける。寒い。クソ寒い。腕しか守れてない無意味なコートは呑気にヒラヒラ風に舞っている。

車のいない横断歩道を雑に横切る。いつもの道のいつもの住宅街の窓の明かりが、いつもよりたくさん気になる。そうかあ。あの窓の明かりは「窓の明かり」という光じゃなくて、あの家に暮らす人の手元を照らす光なんだなあ。なんだか全然実感ないけど、そうなんだなあ。みんな、外出禁止で何してんだろうなあ。ゲームし放題だー!って喜んでんのかなあ。友達に会えなくて寂しがってんのかなあ。やっぱり年寄りにキレてたりすんのかなあ。そのお隣さんは「最近の若い奴は!」とか言ってんのかなあ。マスク買い占めるために今日は早く寝んのかなあ。あんまり何も考えずにYouTubeとか見て夜更かしすんのかなあ。

生きてんだなあ、みんな。燃えてんだなあ。不思議だなあ、こんなに寒いのになあ。

 

自転車を北に向けるとおおぐま座が見えた。北斗七星だ。そのα星とβ星の延長線上に北極星が輝いていることを、いつも通り確認する。あれも太陽なのかあ。燃えてんのかあ。んー、こんだけ自分で言っときながらやっぱ実感はあんまり無いや。

僕の目にはたくさんの光が映っている。たぶん僕は無数の太陽に囲まれている。たぶん。たぶんそうだ。自分の体温すら見失いそうな寒さの中、懸命に想像する。その体温を想像する。きっと世界は思ったよりも温かい。温かくなる。きっと、春は近い。

 

 

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この記事を書いた人
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久保勇貴
東京大学大学院 航空宇宙工学専攻 博士課程。JAXA宇宙科学研究所にも籍を置き、様々な宇宙開発プロジェクトに携わる駆け出し宇宙工学者。 自身のブログ『ハルに風邪ひいた』『コンパスは月を指す』で宇宙を軸としたりしなかったりする文章を書く。 Twitter: astro_kuboy
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