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【身にしみにけり随想録】第二回:そこはかとない罪悪感との付き合い方

2023.08.08

 

(第一回はこちら。【エッセイ・こどもの英語学習】第一回:オンライン英会話の凡庸な悪

 

 

『The Workers Cup ーW杯の裏側』では、プロサッカー選手を目指す21歳のガーナ人のケニスが2回だまされる。

一度はガーナの路上で「エージェント」にリクルートされた時。ワールドカップのスタジアム建設現場で働けばプロクラブと契約できると持ちかけられる。ケニスは詳しい話を知りたかったが、それは現地で聞けるらしい。契約書にサインし、仲介費を1500ドル支払う。

 

カタール到着後、すぐに事態に気づく。

 

 

ここにはアジアとアフリカから数万人の男たちがかき集められ、一棟あたり幅が50メートルはある野戦地の兵舎のような建物で共同生活する。ここは高層ビルが林立するモダンなドーハの市街地とは似ても似つかぬ、出身国によくある第三世界。

労働者は休みなく働く。金を稼ぐためでもある(月収400ドル)が、他にできることがないからでもある。建設会社の許可がなければ街に出れず、出国もできない。何年も家族に会えず、鬱積と困惑のあまり、母国に強制送還されたいがために同僚をナイフで切りつけた者もいたらしい。

食堂は『プリズンブレイク』の刑務所にありそうながらんとした部屋だ。ひとクセありそうな男たちが配給を受けるために列をなし、だだっぴろい空間にならぶ安っぽい机に沿ってくすんだ色の作業服の男たちが列になってすわる。外の世界を懐かしみ、慰めあう。「現代の奴隷制だ」とつぶやく者を中心に、鈍痛の輪が広がる。

 

ケニスはプライドを守るために投げやりになりがちな男という種族に似つかわしく運命を受け入れていたが、数ヶ月後に、一筋の希望の光がさす。

 

FIFAが「サッカーワーカーズカップ」の開催をアナウンスした。労働者によるサッカーの対抗戦だ。チームは建設会社ごとに作られる。レクリエーションが目的のようだが、試合は本格的なスタジアムで行われ、賞金が出る。海外メディアの報道もあるらしい。活躍すればプロチームのスカウトの目にとまるかもしれないと聞く。

キャプテンを買って出たケネスは、中年太りをした事務員やストリートサッカーを極めたガリガリなアフリカ人らをリードして、チームを24チーム中4位に導く。

 

大会終了後、建設会社の本部を訪れる。カタールのプロクラブの入団テストを受ける方法を聞くためだ。

 

応対した白人のマネジャーは言う。

「今日は来てくれてありがとう。むかし僕もサッカー選手になりたいと思っていたから君を応援したいと思う。だが、残念なことに法律がある。サッカーをするためには、まず5年は建設現場で働く必要があるんだ。」

「そう気落ちするなよ。君のプレーを見たけど、君には才能がある。まだ21歳だろ?若いんだから夢を捨ててはいけないよ。僕ができることは手伝うから何でも言ってほしい。」

 

これは、2014年のドキュメンタリーである。

 


わたしは日々、社会を通じて悪を働いている。肉を食べれば動物虐待に、冷房をつければ環境破壊に、ワールドカップを見れば強制労働につながっている。それらの犠牲を頭の片隅で理解しながら、サプライチェーンの終点でなんとなく欲望に身をまかせている。今話題のChatGPTをいじる時と同じで、システムとのインターフェースがこぎれいにととのっているなら、その裏側に恐ろしい統計演算処理があろうが人間の最も醜い所業がつまっていようが気にならない。

脳内小劇場で意識の高いNGOに問い詰められることがあれば、わたしはこう開き直る。

わたしは、野生のサルよりも罪だらけの自分でいることを選ばせてもらう。過去数十年の人生で、わたしは既に卑劣な社会と一体化している。帰省して両親や甥と焼き肉を食べることや、4年に一度ワールドカップを見ることはわたしの欠かせない一部になっている。卑劣漢にならない選択は、その血肉を切りすてる選択でもある。アイデンティティを重要視する近代人であるわたしには軽率にできない選択だ。だから申しわけないが、当面は卑劣でいるつもりだ。これでもきっと平均的な日本人と比べれべば悪くない方さ。文句があるなら先にそちらを問い立ててくれないかーー。

 

連載二本目にして早くも種明かしをしたいのだが、相手にせかされて口を回すときと一人でのんびりエッセイを書くときの決定的な違いの一つは、反射的に考えつく筋書きへの心の機微に手を当てる余裕があることだ。読んでる方は10分で読むが、書くほうは10日間かけて書くことができる。

たとえばドキュメンタリーがいわんとしていることに対して、底意地の悪い頭の整理を思いついたとする。ロジカルには自分を真っ黒だと決めつけてシステムのインターフェイスと癒着した欲望に流された方が楽チンだ。しかしそこに割り切れないものの存在を腹に直感したとき、過去の記憶を拾い集めながら頭と腹の間を反芻し、いわゆる腹落ちを探ることができる。エッセイを書くという行為は、対象に向かってメスでズバッと切りこんでいくことではなく、旋回しながら色々な角度から指をおし当て、徐々に形を探っていくことである。

 

ケニスと同様、わたしも昔はサッカー少年で、今でもスタジアムに観戦しに行くときはピッチに立つ自分を想像する。わたしが昨年テレビで見たのは、サッカーに一生をかけてきた21歳の世間知らずのケニスが、大人たちに何度もだまされて造ったスタジアム。わたしが脳天気に楽しんだのはワールドカップで、ケニスが人生を賭けたのはワーカーズカップ。この駄洒落のつもりなのかわからない中途半端な名称が、ケニスを馬鹿にしているように感じられる。

 

この見過ごせない事案に、小さい頃から引きずっている傷がうずく。

 


わたしは同級生に好かれるタイプではなかった。どちらかというと悪いやつだったと思う。自分を中心に地球が回っていると思っていたし、それを隠すのは今より下手だった。小学校の授業で一度指されれば、聞かれてないことまで開陳した。バスケットボールのチーム分けを任されれば、理由をつけて自分のチームがやや有利になるようにした。

体が大きくて勉強ができたからいじめられることはなかった。だが11歳ぐらいから、何かがうまくいっていないことに気づき始める。クラスメートに一目おかれてはいたが、それは遠巻きに眺める類いのもので、微妙に避けられているシグナルを感じるようになる。こちらから声をかけても、放課後の遊びの予定がなかなか決まらない。通信簿の人格評価欄には、「○」が2~3個しかつかない。

中学校に進み人間関係がふり出しに戻ったときに、漠然ともっといいやつになろうと思ったことを覚えている。もちろん、心がけひとつでどうにかなる問題ではない。しばらくすると小学時代と状況は変わらなくなった。

 

どの子供にとっても友達がいるのは重要だ。友達がいると楽しめるのもあるが、それ以上に、他者に友達として受け入れられるという事実は、自分が友達の値うちがある人間であるという証拠になる。遊ぼうよと言う、いいよと言われる、一緒に遊んだという事実を重ねる。これは、社会人と違ってカネや地位を持たない子供には欠かせない存在承認である。

子供は親に承認されるだけでは不十分である。親が子供を愛するのは慣習であり社会的責任なのだから。責務的に見える親からの愛だけでは自分が一角の人間であると信じることはできない。これが欠けると大問題だが、それが与えられるのは子どもにとってはスタート地点。断る・無視する選択肢を持つ他者から、あえて承認されることが重要なのだ。

それは逆に言えば、友達がいないことは存在が承認されないことを意味する。そして同級生に断られることは、存在を否定されることになる。世界が揺らぐ一大事だ。

 

青少年になったわたしは断られるのが怖くなった。わたしの分析ではわたしは相変わらず悪いやつであり、そのことが友達づき合いがうまくいかない原因だった。衝動的に陰湿ないたずらをして知らないふりをしたり、集団いじめを見てこっそり笑った自分は最低なやつだと思っていた。そんなやつとは誰も友達になりたくないだろう。自分の罪は重い。断られる自分が目に浮かぶ。だが、こちらから誘わない限り断られることはない。だから誘うのは、自分が善いやつになってからにしよう。それまで自分の存在問題は保留しておけばいい。

悪いやつだと思うから臆病になり、臆病になるから不安定になり、不安定になるから悪いやつになる。このループに入っていたことに勘づいてはいたが、中高生のわたしにチェーンから抜け出る勇気はなく、友達づき合いは「お金がかかる」「時間がない」などと実に適当な言い訳をつけて逃避していた。

 

その頃、キリスト教がわたしの前に姿を現した。中高はカトリック系の学校だった。中2まで毎週聖書の授業があり、聖霊祭やクリスマスでは全校イベントがあった。地元の教会の日曜礼拝に参加するという宿題もあり、面識のない数十人のキリスト教徒と一緒に讃美歌を歌ったこともある。こうしたきっかけがあったから、旅行先で訪れる大聖堂やキリスト教が隠れテーマになっている映画でも宗教的なことに興味を惹かれた。カトリックの生徒は数パーセントで、無宗教の生徒に信仰を強いる学校ではなかったが、頭でっかちの中高生に自分の理解力を遥かにこえた世界があると感じさせるには十分な環境だったと思う。

わたしが特に関心を持ったのは愛(アガペ)、無償の愛のコンセプトだった。右頬を打たれたら左頬を差し出しなさい。全人類を兄弟のように愛しなさい。

キリスト教の極端な愛の教えが、不気味に遠大な世界観にキャリーされて、わたしに差し迫った。漠然と善人になりたいと欲していたわたしには、イエスキリストが善人のロールモデルに見えた。愛を実践すれば、いいやつになれるかもしれない。

最後の審判や死後の楽園など多くのキリスト教徒にとっての目的となっているものはバカバカしく思えたし、その他の聖書の教義に興味はない。しかし、キリストの愛だけはわたしのニーズにシンクロした。

 

愛に促され、わたしは高校生ごろから不自然な善行をするようになった。教室の机を整頓するとか、用務員さんに土産品を持っていくとか。毎朝ゴミ拾いをしながら登校していた時期もあった。道端のゴミ拾いをしたことがある人なら誰でも知っていることだと思うが、点数にするとタバコの吸い殻は菓子ゴミの数十倍あり、なぜか排水溝に突っ込まれる輪をかけて汚らしい吸い殻を加えれば更にその倍になる。きれいに拾いきっても翌朝になると通学路全体にまかれ直されているタバコを拾いながら、この大人たちも家庭では妻子に好かれる善人なのだろうか、自分もいつかそちら側にたつのだろうか、と、想像していた。

 

わたしの突飛な善行は、友達に認められたくて始まった。つまりわたしにおいて、エゴと、罪の意識と、臆病さと、散発的な善行がキメラになっていた。

本当はカトリックでは、犯した罪は教父に告白し懺悔しないといけない。親からかすめとった小銭をこっそり財布に返すようには、罪は善行によって清算することはできない。もし自分の弱さを認める過程で真に反省するなら、本質的に善い人間・信仰者に生まれ変われる。逆にそうしないと神との関係はリセットされず、煉獄、地獄に落ちる。

けれどわたしはキリスト教徒ではなかった。それにたった一人に(それも厳しい守秘義務を負った教父に)打ち明けるのすら、プライドが高すぎてできなかった。

 

そのキメラ状態のまま長年経て、今にいたる。

 

数少ない変化の一つは、不自然な善行が脊髄反射的になったことだ。スーパーで床に商品が落ちていれば拾い上げるし、自転車が倒れていれば立て直す。無思考だ。だがそれはわたしが本質的にいい人間だからやっているわけではない。ねじれた動機で始まったものが、習慣化したにすぎない。

また、いいやつになって他者に受け入れられたいという動機はかさぶたに隠れるようになった。わたしは大学生のころに気づいた。仕事の成果や地位や「賢さ」「優秀さ」でも他者には受け入れられるし、本質的な存在承認より自分の社会的有用性に価値を感じる時期もある。心にある人間からの承認への欲求からは積年の疲弊感がただよっている。

そして最近は、ユニークな自己に関心が向いている。イエスキリスト的な万能な人間は今の自分には不釣り合いで、それに憧れるのはユニークな自分に対して不誠実だと思う。ユニークなわたしが他人に承認されにくい理由はいわゆる善悪の問題だけではないし、そもそも善悪を普遍化できるようなものと捉えるのは実存的なセンスに合わない。だから、いいやつになることへの関心は小さくなった。

 

わたしはガーナ人は救わない。救うことを憧れない。たしかにケニスには同情する。彼をきっかけに自分の罪悪感をエッセイに書くほどだ。しかし今でもサッカーワールドカップを見たことを後悔していない。アフリカ人労働者は苦しむだろうが、わたしは善良なキリスト教徒ではない。ケニスの許しを得るために何かしようとは思わない。自分がワールドカップをボイコットすれば境遇がわずかに改善されると感じるほど想像力は豊かではないし、そこまでの思いやりはない。ケニスがサッカー選手になれるはずもない。必要なら、スーパーで床に落ちた商品を拾い続ければワールドカップを見た罪を打ち消せると算盤をはじいて見せよう。

 


数日前、飛行機で外国人の子供連れに窓側の席を譲ったところ、何度も感謝された。いわく、わたしは「めっちゃ優しい人」らしい。

わかるよ。普通の日本人は席を代わってあげたりしないよね。でもそれは、わたしが立派な人間だというわけではないんだ。乗り物の中で困っている人がいたら助ける、外国人が困っていたら助ける、という、わたしの脊髄反射パターンにはまっただけなんだ。しかもそれは、過去の罪と臆病さの反動でしかない。だからそんなに大げさに感謝してくれなくていいんだよ。わたしは「めっちゃ優しい人」ではないんだから。

 

だが、かさぶたはかさぶただ。偶然強く打ちつけるとひどく痛む。

 

前回の投稿は次の問いで終わっていた:

わたしがオンライン英会話で8歳児の母親に諫言したとき、本当に動機は子供を救うためだったのか。根源的な理由は私欲であって、毎日2回の文法レッスンに飽き飽きしていたからではないのか。親が5倍の金を払っていたら目をつむっていたのではないか。そういう動物的or近代的な動機の方が、支配的だったのではないのか。その動機を正当化するために自分が子供を救ってヒーローになる動機を考えついたのではないか。だとすれば出世したくてユダヤ人をアウシュビッツに送り、「命令に従っただけだ」と言い訳したナチス幹部のアイヒマンと、根本では同一ではないのか。

 

わたしは、そうではないと答えたい。

不正義に加担したくない、罪悪感から自由になりたい、道徳的と信じられる人間になりたい、というわたしの願いは原初的なものだ。小学校高学年に遡るもので、少なくても、大学生頃から強く感じ始めた金や地位など社会的効用への欲求とは同程度以上の深度からきている。

その過去をもつから、わたしは自分の手で無抵抗な8歳児を無意味に苦しめていることに気づくと、ソワソワし出したのだ。

 

もちろんわたしは卑怯さを含んだキメラなので、まず論理的な自己弁護にトライする:

「わたしは生きるためにカネを稼いでいるのだから、多少の悪を働くことは仕方ない」

 ーー嘘だ。この生徒がいなくても収入は1円も変わらないだろう。

「親を不快にさせて低いレーティングをされたら、予約をされづらくなる。」

 ーー嘘だ。親を怒らせないように説得すればいいだけだ。演技とロジックは自分の得意分野だろう。

「教育方針は親の選択であり、講師が口出しすべきことではない」

 ーーどうだろうな。本来は子供の選択なのを親が代行しているのではないか。もし自分が講師として親よりも客観的なデータを持っているなら、子供のためにシェアすべきではないだろうか。

「なぜこの子を救うのか」

 ーー文法をやる8歳児はこの子だけだし、一日2レッスンは明らかに異常だろう。教えている自分だって退屈してるじゃないか。親との関係も悪くない。もしこの子を救わないなら誰も救えず、ずっと罪悪感で苦しむことになるぞ。逆にこの子だけでも救えば、達成感を味わえるだろう。

 

ふつうの英会話講師にとって、親に諫言するかしないかは、いわゆる「決め」の問題だと理解している。無関心で、どちらでも構わない。子供への不憫さプラス文法授業の退屈さと、親に歯向かうという突飛な行動のリスクを天秤にかけて「決め」る。どちらだろうが、自分にとって重要な問題ではない。たいていは講師の領分にしたがい、親に口出ししないだろう。アイヒマンのように慣習に従う方が無難だからだ。

 

だが罪悪感について悩んできたわたしにとっては、自分が無抵抗な8歳児を毎日50分間苦しめているという事実は無関心ではいられない問題だった。ケニスの事例と違って、この事例は閾値を超えていた。

バカバカしいほど長い逡巡によって、罪悪感が私欲と結びつき、不快感の圧力と行動への渇望が高まっていく。

 

そしてある祝日の夜遅く、いつもよりわずかに大きい子供の苦しみを感じたわたしは、待ってましたとばかりに罪悪感を解放させ、ターゲットに定めた母親に襲いかかる。

彼女には可能な限りの誠意を尽くしたつもりだが、動機が動機だっただけに彼女を傷つけたかもしれないと反省している。

 


ヒーローになりたいという思いは、容易に軽薄な承認欲求に転嫁する。わたしたちが恋焦がれているのは名誉であり結果ではないからだ。芸能人やスポーツ選手に憧れた子供の頃から変わらない。この動機は期待した反対給付が得られないと萎えていく。

そしてそのうち、ヒーローにならなくても楽しく生きていけることに気づく。近代社会でいえば、サラリーマンをすれば、親を演じれば、肉を食べれば、ワールドカップを見れば、つまりアイヒマンになればいい。やるべきとされていることをやればいい。感覚を麻痺させたわたしたちは、ヒーローになるどころか凡庸な悪を働くようになる。

 

それに対して罪悪感は、信頼できる。この生理的とすら思える欲求は、結果に結びつくだけでなく自己破壊的だからだ。閾値を越えて卑怯なことをすれば、仮に隠し通すことができても良心の呵責が残る。万引きした記憶や、いじめを看過した記憶は、いつまでもわたしたちを苛む。この苦しさから逃れたいという欲求は、一度気づいてしまうと切実なものになる。卑劣漢だと自覚しながら生きるのはたいていの人間にとって苦しい。

この動機は他者からの反対給付を必要としない。内燃的で外的要因に左右されないから、ある意味でサステイナブルだ。これは幼児にはない、大人らしい欲求だと思う。

 

そしてこの罪悪感はおそらく経験と共に質的に変化する。

わたしの知る年長者の中には「日本のため」「将来世代のため」を考え、行動する人が珍しくない。体感的には50歳を超えたかくしゃくとした人に多い。特に子供がいる人はそうだ。これはもしかすると、罪悪感が原因ではないかと思う。彼らのキャリアは日本の後退期に重なる。失われた30年に凡庸な悪として働き、次の世代に負の遺産を回してきたことの後ろめたさを感じているのではないかと想像する。

正直言って、わたしはまだこの感覚を理解できない。わたしは若いというのもあるし、わたしの罪悪感は衝動的で周囲のもの以上へ想像力が広がらないからだ。

 

けれど、わたしなりに罪悪感との付き合い方を一歩進めたいとは思う。

イエスキリストに憧れるのはやめても今より少しだけすがすがしい自分には憧れているからというのが、その理由の半分。残りの半分は、このエッセイにオチが欲しいからだ。両者は主従の関係ではない。わたしが行動するには、どちらの動機も必要なのだ。

 

ひとまずは、オンラインで無理やり英会話を学ばされている児童をいく人かでも救いたいと思う。例えば、エッセイにしたてて親世代になりつつある若い読者に向けて状況を伝えたらどうだろうか。影響をあたえるなら親が英会話をさせる気になる前の方がいいと思うのだ。すでに子どもの英語教育に精神的にコミットしていたあの母親を説得することはできなかったが、教育に迷っている親になら適切な助けになれるかもしれない。

 

ちなみに、ネットメディアでエッセイを書くことは読者が想像する以上に恥ずかしい行為である。おそらく、わたしはキャリアエリートな読者からの見下すような視線に神経質になり、すこぶる不快に感じるだろう。

けれど、もしそれに臆するなら、わたしはいつまでも社会や他者の目線を気にし続けることにならないか。ユニークな自分などになれるものか。7000字のエッセイを30時間かけて書いて高まった圧力を使わないなら、いったいいつその殻を破るというのだ。

 

 

 

 

 

この記事を書いた人
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高岡周
新卒のキャリアで5年勤務。2021年から『朝のスペクトラム』でエッセイを執筆。2022年からオンライン英会話講師。
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