<連載のはじめに>
わたしは2010年代中頃に東大を卒業し、ファーストキャリアの会社で5年働き、退職しました。今は地方に移住し、山野とインターネットに囲まれて過ごしていて、職業はオンライン英会話講師です。
卒業時には気づかなかったのですが、近年いわゆる中年の危機を感じる年齢が劇的に若くなっていると感じます。つまり、社会のレールにのって進んでいた人生がどこにもつながっていないと日本人が集団的に気づく年齢が、これまでは出世競争と子育てにひと段落つく時点だったのが、今はファーストキャリアに失恋する時点になっていると思います。
周囲を見渡すと、間断なくセカンドキャリアを始める人(または疑念を持ちながらファーストキャリアを続ける人)が大多数ですが、芸術を始める人、主婦になる人、鬱に陥る人もいます。
わたしも20代後半にファーストキャリアを辞めた直後に中年の危機に苦しみました。初めて訪れる異国の空港から出た瞬間に感じる、どちらに向かって歩けばわからない混乱に似ていました。2年ほど迷走し、家族や友人そして彼女との人間関係に苦しみました。
しばらくはユニークな個人になってやろうと思っていましたが、自然となるべく善い人間になりたいと願うようになり、今はそれを最優先事項にして頭を抱えながら生きています。
毎朝書いているエッセイでは、そのわたしの内面の劇的な葛藤と、外面の微細な行動をナレーションしています。これから始まる連載が、読者の皆様の何らかのきっかけになれれば、それほど嬉しいことはありません。
オンライン英会話には、ちびまる子ちゃんぐらいの年齢の生徒がたくさんいる。1日25分、1000回以上レッスンをこなす生徒もいるが、講師をしていると、ふつうの中学1年生より話せる児童はほとんどいないことに気づく。昨日も英会話5年目で”What did you do today?”を理解できない11歳児に会った。
わたしは、小さい子供はオンライン英会話をしないほうがいいと思っている。
英会話で最も大切なのはモチベーションで、次点はストレスの小さい勉強法だ。英語は毎日コツコツ数時間、長期間勉強し続ける必要がある。3ヶ月で終わるプロジェクトではないから、モチベーションとストレスのバランスで余裕を持つことがマストだと思う。
モチベーションは存在に関わるほど重要なものであることが望ましい。学校で友達を作るためとか、モテたいとか、海外Vtuberの熱烈なファンとか、仕事で恥をかきたくないとか、引退後ひとりぼっちで話し相手が欲しいとか。けれど、日本の小学生にはモチベーションがない。友達づきあいは日本語だし、オンラインで見知らぬ大人と話すのは最高につまらない。親は大学入試を心配して英語を勉強させるが、子供は10ヵ年計画に共感できない。
また、子供にとってオンライン英会話はストレスである。画面の前でジッと動かず、絵や動画がない教材の、かりに日本語で書かれていてもわからないような文字を目で追い、リッスン・アンド・リピートで反射的に音を出す。児童教育の心得がない大人と、不自由で淡白なやりとりをする。
オンライン英会話はこういう不幸な児童を量産している。ベルリッツやGabaの40分6000円ぐらいの値段であれば、ほとんどの家庭には手が届かないだろう。しかしオンラインなら、途上国の講師となら25分200円で、ネイティブ講師でも25分700円でレッスンができる。月謝にすると6000円〜21000円。水泳やピアノ教室と同程度だ。それもパソコン一台で済んで、送り迎えや洗濯もいらない。コロナの影響もあり、この数年で子供の将来を心配する親が、ネイティブキャンプやレアジョブに子供を入れるようになった。
昔の同僚がよく「時間泥棒は殺人と同じ」と言っていた。特に文句をたれていたのは毎週月曜日10時からの儀礼的な課内会議だ。全員が順番に仕事の進捗を報告するが、課長とNo2以外はボケっとつっ立っているだけである。30分の会議はいつも課長の「健康に気をつけましょう」「元気に頑張りましょう」「有給を積極的に取るようにしましょう」という締めで終わる。児童にとってのオンライン英会話の毎日25分は、課内会議と同じように強制的で、ストレスフルで、効果が疑わしい。もしかすると元同僚ならこれを「殺人」と呼ぶかもしれないと思う。
わたしはこれまで社会が子供を改造し始めるのは10歳からSAPIXでだと思っていたが、今は早ければ4歳からオンラインではじまる。仕組みは分業制。資本主義、運営会社の事業部門、ITエンジニア、金融インフラ会社、親、そして講師。無抵抗な子供をシステマティックに「虐殺」する。システムの犠牲者が山をなす。
さあひるがえって、わたし。
巨大なシステムの中の、一人の講師。
性別を示すmを先頭に、5桁のIDが振られている。ここではm24601としておこう。
回転寿司のように次々と案内されてくる児童にm24601は講釈を垂れる。数十分後には忘れられる単語。子供の理解力を越えた文法。大人向けのダイアログ。
隠れたところで親がレッスンを聞いている場合、m24601はさらに凡庸な教師になる。子供の視線がスクリーン外の一点に頻繁に泳ぐから、親がそばにいるのはすぐわかる。
授業後に講師をレーティングするのは親だ。m24601は親に嫌われてはいけない。だから親の気配を察すると、子供にとって面白い授業ではなく、親をよろこばせる授業をする。たいていの親は日本語で説明することや休憩を入れることを嫌う。理想的なのは子供むけに見えるイングリッシュ・オンリーのレッスンをしながら、親にとっても面白い知識を入れることだ。子供には半分しか伝わらなくてもかまわない。
レッスンが始まるとm24601はスクリーン越しに子供に念じる。
あなたにはすまないと思う。わたしが悪魔に見えていることは知っているよ。でも、ごめん。こうするしかないんだ。わたしの役目なんだよ。
わたしもあなたと同じように、あなたは英会話をしない方がいいと思っている。でもそれを親に言うと、わたしは罰せられるだろう。それは嫌なんだ。それにわたしがクビになっても、あなたは代わりの講師と同じことをするだけだ。
あなたの苦しみができるだけ楽になるように気をつけるよ。声の調子を工夫するとか、笑顔を3倍増しにするとか、たとえ話にアニメやゲームを使うとか、ゆっくり進めるとか。それで勘弁してもらえないだろうかーー。
ここで一旦、少し引いた目線に切り替えたい。
「虐殺」、巨大システム、そして官僚的な駒というと、東大生なら一つの事件ーーナチスのユダヤ人虐殺ーーと、一つのキーワードーー凡庸な悪ーーが思い浮かぶかもしれない。
歴史を振り返ると、このm24601のテレパシーはゲシュタポの移送局長官だったアドルフ・アイヒマンが当時を振り返って証言したことと同じであることに気づく。アイヒマンは、アウシュビッツにユダヤ人を送還したのは「命令に従っただけ」であり、自分は神の前では有罪かもしれないが、法の前では無罪だと主張した。
アイヒマンの裁判を傍聴していたユダヤ人哲学者のハンナアレントは、彼を凡庸な悪と呼んだ。ヒトラーと違ってアイヒマンは根っからの悪人ではない。どの国にもふつうにいる社会人で、組織人だ。陳腐で、ありふれた人物だ。そういう人間が、巨悪の手足になった。アレントは警鐘を鳴らす。わたしたちにとって重要なのは凡人を弾劾することではなく、社会と人間の間のこの危険で再生産的な構造に気づくことではないのか、と。
m24601はアイヒマンと違って、自分が凡庸な悪であることを認識している。アレントのおかげだ。同じ自己認識の表現でも社会人という表現は価値中立的だが、凡庸な悪はネガティブな呼び名である。そのためm24601は自分が悪だと気づくと、ソワソワしだした。少なくても悪でないと信じるための免罪符が欲しくなる。
だから一度だけ、ある親に立ち向かった。
この親は、8歳の娘にオンライン英会話で文法を学ばせていた。目標は中学受験までに英検2級を取ることだ。そうすれば特別枠で受験できたり、加点がもらえたりする。インターナショナル幼稚園に通わせていたが小学校からは公立なのでこのままでは厳しい。たまたま自分がm24601とレッスンをしたときに、m24601に文法の心得があることに気づいた。それ以来、娘をカメラの前、自分の隣に座らせ、m24601と毎日2レッスン50分間、中高6年分の文法を3ヶ月で終わらせるようなペースで詰め込ませていた。
一方のm24601は、自分の授業に効果がないと知っていた。子供は高度な文法を理解できない。中高生ですら論理力が不十分なので、宿題や試験で反復学習して体に染み込ませる。8歳児は1つ1つの具体的な説明を理解できても、それを抽象的なルールとして頭に定着させることはできない。もし文法をやるとしても時間をおいて反復しないとだめだが、親が望む高速ペースではそれができない。英検を受けるころには忘れているだろう。
それに、m24601は親と自分の機嫌を取ろうとする8歳児を見るのが辛かった。彼女は『ドラえもん』のしずかちゃん並みにいい子だ。自由作文では決まって”ride a bicycle”か”take a shower”という例を使う。テレビゲームをするとか、アニメを見るとか、漫画を読むとか、お菓子を食べるとか、大人が眉根をひそめそうな例は絶対に使わない。
彼女は、隣からヒソヒソ声で指示されることに子犬のように従う。「ありがとうございましたって言いなさい」「did notじゃなくてdidn’tでしょう」。彼女は2大権威に見張られ萎縮する。主体性が受動性に植え替えられていく。
祝日の21時のレッスンに、二人はやってきた。その日2回目だ。子供は眠そうな顔をしている。m24601が前日いっしょに寿司を食べた同い年の甥は20時には充電が切れていた。いったんジャブを打ってみる。”Wow, you again. Are you a bit tired?”ーー。 子供の反応は、剛腕上司に「元気?疲れてない?」と聞かれた時の残業でくたびれきった社会人と同じだった。
m24601は普段通りの授業を終えたあと子供を放免してもらい、親に向かって話し始めた。彼女は化粧していないためカメラに映れないことを申し訳なさそうにしていたが、そんなことはどうでもよかった。
このとき、m24601には別の動機が働いていた。彼が数日後に気づいたことである。
彼はこの毎日2回のレッスンに退屈していた。もう3週間ほどたっていただろうか。彼はさまざまな日本人と話すために英会話講師をしていたのに、このマンネリ化した文法レッスンには人間についての新しい発見がなかった。親の視線を感じながら子供の機嫌をとることは苦痛でもあった。一日5〜6回しかやらないレッスンの2つをこの親子に使いたくなかった。
働くのは日銭を稼ぐためでもあるが、この生徒を失っても収入は1円も変わらない。同じ時間に他の生徒(それも8歳児よりはずっとm24601が面白い話を聞けるだろう生徒)と話すことになるだけだ。だが裏を返せば、もし母親が退屈さに見合う対価ーーたとえば5倍のカネーーを払っていたなら、自分は8歳児の苦悩に目をつむったかもしれない。いや、そうに違いない。こんな些細な抵抗ですら、私利私欲のためでないとできないなんてーー。
さらに、子供を救いたいという思いと自分が楽をしたいという2つの動機は、並列関係ですらないかもしれないと気づく。
本当の動機は、私欲の方かもしれない。子供に文法を教えたくないから、それを正当化するために子供に英語を教えるべきではないという論理を作り出したのかもしれない。
自分は卑怯者で、子供の幸せや論理を盾にしただけかもしれない。わざわざ哲学者を引っ張り出したり、近代社会にシニカルになってみせたのかもしれない。自分を凡庸な悪だと思う方が、欲望を我慢するより楽だから。些細な抵抗を針小棒大にとらえて頭の中でヒーローを演じるのは、気分がいいから。母親を説得したあの数分の間ですら、m24601は人間の陳腐さから自由でなかったかもしれない。
ユダヤ人を淡々とアウシュビッツに送っていたとき、アイヒマンはなぜ「命令に従っただけ」と考えたのだろうか。敵国を蹂躙するドイツ帝国の一部になりたくて、ライバルを蹴落として出世したくて、豪華な家に住みたくて、ではなかっただろうか。その汚い個人的な動機に動かされながらそれを隠して、もっともらしく「命令に従うだけ」と自分に言い聞かせていたのではないだろうか。
そうだとすればm24601はアイヒマンと同じことをしている。m24601がした抵抗は、確かに反システム的ではあったかもしれないが、理屈に隠れて自分を可愛がったという点では同じだ。反社会的ではあっても、その自分を快く思うことはできない。
そして残念ながら、結果としてその子は救われなかった。親が翌日から娘を別の講師との文法レッスンに送り込んだからだ。あの夜、m24601はその子供を救ったつもりだったかもしれないが、そのことによってm24601はアイヒマンより陳腐でなくなったわけではなかった。
我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する。
スピノザ『エチカ』
この気づきは敷衍する。
m24601は自分がユニークで善い人間になるという動機のために、オンライン英会話講師としてさまざまな日本人の話を聴きたいと思ったと考えている。しかし、実はもうひとつ前に最初のボタンがあって、本当のところは、悪魔的な目的、動物的な欲望、近代的な効用を叶えることが究極の動機だったりしないだろうか。
もし、あの夜に8歳児を助けようと思ったのと同じようにm24601が善い人間になりたいと思いたったのなら、つまり自分を可愛がるために善い人間になりたいと思ったのなら、その動機の基盤は脆弱だ。もしそうだとすれば、本質的にはユニークで善い人間になる必要はないことになる。そうではないと、m24601は断言できるだろうか。
直感的には、社会人であろうとするほど社会的規範が内面に深く巣食い強い動機になるように、何かを思いつめる期間と強度の積によって、動機の深度は増すように思う。m24601が自分の善を深く考え始めたのはこの1〜2年だが、出発地点は10代前半で自分の醜さを自覚したときだった。だから、多くの価値判断に際して陳腐な動機が支配的なことは否定できないが、完全な主従関係かというと、そうでもないかもしれない。
この問いを受けて、次回はm24601改め、わたしの罪悪感について。