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かけがえのない一人の人として、慰安婦に向き合う。「傷ついた人を、わざと更に傷つけようとすることだけは、絶対に間違っている」

2016.03.16

楽しいときもつらいときも、常に東アジアの友人と過ごしてきたという長川さんの奮闘記の後半です。

慰安婦問題に”向き合う”挑戦。「東アジアは自分の一部」
学問・研究
慰安婦問題に”向き合う”挑戦。「東アジアは自分の一部」
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長川美里
2016-03-11

(前半はこちら)

東アジアの人々が友人として、先入観なく付き合える世界を目指す彼女。「慰安婦問題」に魅入られ、東京大学公共政策大学院CAMPUS Asiaプログラムに入学することになります。

「『誰が、何が、いつが正しかった。』社会にはそういう議論がたくさんある。私にとってそういう議論は、大して意味を持たない。」

当事者に向き合ってこそ、分かることがあるはず。長川さんの、徹底的に真摯な、人へのまなざし。一人のかけがえのない個人として、元慰安婦の方々にひたむきに向き合う彼女の姿勢に、圧倒されます。

是非最後までお読みください。

学生証
  1. お名前:長川美里さん
  2. 所属:日本再建イニシアティブ インターン(東京大学公共政策大学院CAMPUS Asia・北京大学国際関係大学院修了)
  3. 進路:東アジア人として「近くて近い」社会を作る

誰が何と言おうと

決して宣伝する気はないけれど、CAMPUS Asiaの何がいいかって、それは東大・ソウル大・北京大の三カ国を回り、最終的に二つの修士号を取得できること。私がずっと恋焦がれてきた東アジアに、まさにどっぷりつかれる二年半。

私は東アジアの歴史問題、特に慰安婦問題に向き合おうと、決めた。誰がなんて言おうが、好きなものを追う事は悪い事じゃない。人がどう思っても、最後は私という人間で勝負しようと、腹をくくった。

2013年、ソウル大・北京大・東大でのサマースクール@東京大学

そして向き合う上で、私が一番大事にしようと決めた事、それも、「人」。

「誰が、何が、いつが正しかった。」社会にはそういう議論がたくさんある。私にとってそういう議論は、大して意味を持たない。

知識はマナーとしてある程度は持つべきだし持っていたけれど、私は東大に学部から入れるほど頭も良くないし、国際関係論を自信を持って議論できるほど国際関係論にどっぷりつかっていたわけでもない。

私が目線の先に置きたかったのは、当事者だった。彼女たちは今、何を考えているのか。様々な声が存在する中で、そして時代が移り行き、彼女たちの仲間がどんどん失われる中で、時代を担う私達に、何を求めるんだろう。

16歳の私が渡米した時のように、私は思った。
よし、聞きに行こう。わからないことは、聞くに限る。

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当事者に、出会う

2013年の夏、私は元韓国慰安婦の方々が暮らす、韓国の「ナムヌの家」に足を踏み入れた。

元慰安婦の方々が暮らすナムヌの家には、資料館も併設されている。私は、これに関してはここでは書かない。人には様々な考え方や感じ方がある。それは尊重されるべきで、何が正しいかの議論は、見る側によって違う。私があくまでここで目的としたのは、元慰安婦の方にお会いする事。

2013年、ナムヌの家にて。@韓国


訪れた私達を前にして、元慰安婦の方が、体験を話してくれた。私はその後、話かけに行こうと決めていた。ずっともやもやしてきた事、私達に何を求めているのか、それに関しての答えが欲しかった。私は韓国人の友人と一緒に、彼女に歩み寄った。そして、尋ねた。

「若い私達に、何を求めますか?」
彼女が私の手を握って放った言葉は、私の想像を、遥かに超えた。

「理解と、心で感じて下さい。」

それは、何よりも難しく、今思えば、東アジアのこの問題がなぜ今だにそこにあり続けるのかの根本をついたような答えだったと、思う。

もし彼女が、メディアで見るように、お金や謝罪が欲しいと私に直接言ってくれれば、どんなに楽で、簡単であっただろう。それが答えだと私は納得してある程度すっきりすることができただろうし、すとんと心に落ちたと思う。

けれど、理解と心で感じるという回答は、私の胸に、深く突き刺さった。

何を理解し、何を感じる事が、正解なのか。そして私は何を発信する事ができるのだろう。
私は再び混乱の渦に、落ちる事になった。

中国に、目を向ける

そんな思いと葛藤を感じたまま、2014年の春に私はソウル大学国際関係大学院へ6カ月留学した後、2014年の秋からは北京大学国際関係大学院へ1年の留学をした。

2ヵ国での1年半、私が大事にしてきたことは、ただ一つ。自分の目で見て、自分の耳で聞いたことを信じる事。

そもそも私が大学院で勉強を始めた2013年という年は、中国・韓国では国のトップが丁度変わり、三カ国の首脳会合は延期を重ね、日本の書店では嫌韓反中の本が多くみられた時期だった。中国という政治体制が異なる国に一年住むことは特に私をナーバスにさせたし、色々な余計な映像が頭の中で反芻されていたので、特に中国ではその思いを強く持とうと決めた。

私は北京大学での修士論文を三カ国の慰安婦問題に定め、混乱はあったものの、とことん向き合う事に気持ちの揺らぎはなかった。様々な文献を読み、人と話す中で、私の中の、どうしても拭い去れない思いが、徐々にまたはっきりとしてきた。

やはりどんなに文献を読んで、政府の公式文書を読み込んでも、当事者の言葉の力には、到底かなわないということだ。日韓の問題と捉えられがちなこの問題を、私は中国側の視点から、当事者の発言を通して理解したかった。

韓国と異なり、慰安婦問題はあまり中国の中では色濃くない。どうやったら当事者の方に会えるのか、模索する日々が続いた。帰国が迫る中、偶然が重なり、私はついに、私達の訪問を受け入れてくれる当事者の方にたどりついた。

行くしかない。行かないと、絶対後悔する。
だから、私は2015年の夏、北京大学の日本人・韓国人・中国人の同級生を誘って、中国山西省を訪れた。

2015年、Zhang Xiantuさんを囲んで@中国山西省


元中国人慰安婦のZhang Xiantuさんのご自宅は、山西省の山に囲まれた田舎にひっそりとあった。整備されていない道をたどって、ベッドルームしかないとても小さな家に入ると、纏足の足で歩行が不自由なZhangさんがベッドの上にちょこんと座っていた。

「わざわざ遠くからお見舞いに来てくれて、ありがとう」

Zhangさんはそう笑顔で私達を迎えてくれた。慰安婦時の経験が元でわづらった病気が長引き、人生にとても悲観的になってしまうのだと言うZhangさんに、私は同じ質問を、聞いた。

「若い世代の私達に、何ができますか?」と。

残念ながらZhangさんは、私の質問を、上手く理解できなかったようだった。もう少し私に中国語ができたら、もう少し早くここに来ることができたら、違っただろうか。88歳で、多くの病気を抱えたZhangさんのことを、同行してくれた支援家の中国人の方が、「彼女は孤独だ。」と説明してくれた。

私は韓国の元慰安婦の方々を思い浮かべずにはいられなかった。韓国では、元慰安婦の方々には多くの支援者がついていたのだ。

どの方の体験も、私が軽々しく決めつけてはいけないものだと思う。それでも、社会から差別され、あまり注意も払われずに過ごしてきた中国人の慰安婦の方の境遇は、あまりにも、悲しかった。

私ができることは、彼女と会ったことを、なるべく多くに人に伝える事だと思い、それを彼女に約束し、ご自宅を後にした。

私達はその後、別の元中国人慰安婦の娘さんの楊秀蓮にお会いした。楊さんとは政治的な話もすることができた。日本政府からどのような謝罪が欲しいか聞いた際も、「私が当たり前に受けるはずだった愛情を受けられなかったことに対して、謝罪が欲しい」と仰った。

私は初めて、この問題をより当事者に近い立場で、はっきりと話せる方にお会いできたと思い、やはり同じ質問をぶつけた。

「若い私達に、何ができますか?」と。

楊さんの答えは、私のこの問題に対する見方を、はっきりと変えるものとなった。

「母親が子に愛情を渡すように、平和を受け継いでほしい」。

楊さんの元慰安婦だったお母さんは、慰安婦の体験が元で、自殺している。
真に迫った平和の尊さについてここまで迫る言葉はないと、感じた。

(当事者へ会いに行った様子が、動画にまとまっています。)

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次世代に生きる

私は、一つの答えにたどり着いた。

それは慰安婦問題というものを、私達の世代が、どう見ていくべきかということに関しての、答えである。

90年代の前半に生まれた世代であれば、一度は、学校から戦争体験の話を祖父母の世代に聞いてくるという宿題が、出たはずである。少なくとも、私の学校にはあった。周りの大人たちは、平和の尊さを訴え、大事なことだから聞いてくるようにと私に言った。中学の修学旅行は広島だったし、毎年8月が近づくと、日本社会は多くの人が、過去に思いをはせる。私は、それはとても尊い習慣だと思う。

けれど、その当たり前の思いが、「慰安婦」というラベルが付くと、濁ってしまうのは、なぜだろう。

色々な思惑や思いが渦巻いて、声を大きくし、相手を感情的に暴力的に傷つけるサイクルが、どうして今も残っているのか。

それは、彼女たちを「当事者」として・人として見つめるということが、欠けているからだと思う。

次世代の私達がしなければいけないことは、戦争の中で起こった悲劇の中に、多くの人達の、「私たちと等しく尊い個人」の、生身の体験があったことを理解することだと思う。それを自分の目で見、耳で聞き、自分の頭で考える事だと思う。

彼女たちは、同じ人間であり、例えば広島で原爆に遭った方々と同じく、戦争被害者である。私は、その当たり前のことに、長く気が付かなかった。慰安婦という枠をはずし、人として直接会ったからこそ、私はこの答えにたどり着いたのだと思う。

人間はロボットではない。感情的な生き物だ。人間の感情は、うつろいゆく。彼女達自身だって、生きている中で、多くの苦悩や葛藤がある。

「次世代の若者がこんなに活動をしてくれている」というような、私が訪れた時のように、悲観的ではありながらも穏やかで、私の手を握るだけの思いやりや、目をまっすぐ見据える優しさを兼ね備えた彼女たち。

「どうして日本の政府はわかってくれないのか」というような、デモや裁判の映像で、泣きながら謝罪を求める彼女たち。

そのどちらも、彼女達であると私は思う。誰だってそういう多面性を持っている。

だからこそ大事なのは、歴史の中で彼女たちがどういう経験をしてきたのか、その声に耳を傾け、一人一人が持っているあたりまえの感情で、聞き、伝える事であろうと私は思う。

例えばあなたの傍でつらいと泣いている友人に対して、あなたはどうするだろうか。

かける言葉は人それぞれであっても、「この人はどうして泣いているんだろう、大丈夫かな」という気持ちを持つのではないだろうか。

そういう当然の気持ちが、結局はこの問題に対して欠けているんじゃないかと思うのだ。

泣いているその友人に、さらに罵声を浴びせたり、その友人がつらいと言っている体験自体を、そんなものはなかったんだと真っ向から否定したり。

人間として友人として、相手を見ることが出来たなら、決して起こりえないであろうことが、慰安婦問題においては、なぜかまかり通っているのではないだろうか。

広島や、長崎や、沖縄や、東京大空襲に思いをはせる時、当たり前に同じ時代に生きた、元慰安婦の女性たちのストーリーにも思いをはせる事が出来たら、少しずつ、私達は近くなるのかもしれない。

社会には、様々な人がいて、色々な物の見方がある。何を正しいと思うか、何を信じていきたいか、それは誰の手によっても強制されるべきものではないと、三カ国を回って私は思った。とことん議論をするのだっていいし、agree to disagreeでもいい。

けれど絶対的に東アジアの社会でお互いが間違っているのは、相手を暴力的な言葉で、意図して傷つけようとすることだ。根本的な人に対する思いがあれば、そんなことはできない。

挑戦は続く

もし私にもう少し大学院生としての時間があれば、本当は日本人慰安婦の方にもお会いしてみたかった。同じ質問をお聞きして、心にとどめておきたかった。残念ながら、それはまだかなっていない。そのような経験を持ち、日本社会で生きるという事は、彼女たちにとって壮絶なものだったのだろう。声をあげられる人は、少ないのかもしれない。

2016年1月24日、主催したシンポジウムで、スピーカの方々と一緒に@東大


私は自分の思いを少しでも還元しようと、2016年の1月24日に、東京大学で180名規模のシンポジウムを、志を共にする友人と共に開催した。母校である東京大学公共政策大学院の後援を受け、魅力的なスピーカーの方々と共に、私自身も東アジアに対する思いと、慰安婦問題という視点から、話す場を頂いた。

イベントの名前は、「次世代に生きる ‘わたし’たちにとっての東アジアと相互理解」。それぞれが私というレンズを通して、何か、東アジアへ思いをはせ、行動を起こすきっかけになってくれればいいなという思いをこめた。

最後に、私の描く社会は、まだ実現していない。それはこれから、時間をかけて、時に回り道もしながら、少しずつできることを重ね、実現したいと思う。
私は活動家でも、政治家でも、学者でも、学生でもない。一人の人として、私の好きな人達が、共に笑える社会に生きられればいいと、単純に感じる。それはこれから先も、ずっと変わらない。

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長川美里
はじめまして! 長川美里です。UmeeTのライターをやっています。よろしければ私の書いた記事を読んでいってください!
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