私の嫌いな言葉は、「近くて、遠い」。
その言葉を誰も言わなくなる社会を東アジアで作るのが、私の夢である。
私が東アジアに興味を持ったきっかけは、「人」。まずはそこから話したい。
特に不真面目ではなかったけれども、少しやる気が足りない、だから中間試験では数学・英語の補修にひっかかってしまう、私はそんな中学生だった。
中学2年生である程度英語はおもしろいと思い頑張り始めたものの、私の世界はごくシンプルで、将来大学では文学を学びたいなぁと考えていた。
そんな私が高校1年生でアメリカへ1年渡米したのは、単純な思いの延長線上だった。当時小説家になりたかった私は、小説家になるのであれば世界に声の届く小説家がいい、それであれば自分で翻訳できるように英語ができたほうがいいだろう。よし、渡米しようと、16歳の私は渡米した。
そしてその決断が、私の人生を決定的に変えた。
私はそこで初めて、東アジアと出会ったのである。今でも忘れられない出来事がある。それはコネチカット州にある高校に留学する前の一か月を、ワシントンD.Cの語学学校で過ごした時の事。ワシントンD.Cのど真ん中にある語学学校に、誰も知らない状態のまま放り込まれた16歳の私を一番気にかけてくれた友人達は、東アジアの友人だった。台湾からのKate、韓国からのJJ、モンゴルからのNASA。
そんな4人での日々で、ある時私はJJに、「日本のことをどう思う?」と聞かれた。私は彼の質問の意図がわからなかったし、その当時歴史のことなんてこれっぽっちも知らなかったので、「別に何とも思わないけど」というような解答をした記憶がある。その時のことを私は大分後になってから思い出し理解したのだが、当時の私はとにかく能天気で、アジアで戦時中何が起こったのか、何も知らなかった。
一か月後、私はコネチカット州にある高校へと入学し一年を過ごすが、やはりそこでの親友も、韓国人。一緒にダンスチームを組んだのも、中国人、台湾人の友人とであった。
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英語ができるようになった私の世界は帰国後ぐんっと広がり、英語で入ってくる情報量の多い世界の中で、私は国連に行きたい!と思うようになった。
国連で何をするのかは明確にはもちろん定まっていなかったが、英語ができて、国際問題に触れられる場所に行きたいと思い、上智大学の国際教養学部(講義が全て英語)に入学、サークルでは模擬国連に入った。
そして私は、大学2年生の夏に、あの言葉に出会う。
「近くて、遠い」
それは大学2年生の夏、日本・中国・韓国国連協会が主催した第一回日中韓ユース・フォーラムに日本代表団の団長として参加した時の事。それぞれの国の団長が閉会式にてスピーチをしたのだが、中国側の団長がその言葉を使っていた。
私にとって、その言葉は衝撃的だった。16歳の時から、私の周りには当たり前に、東アジアの人々がいた。楽しいときも辛いときも、私の思い出には常に東アジアの彼らがいて、私にとって東アジアはむしろ生活の一部だったから、「これはいかん」。そうただ単純に、憤りを覚えた。
東アジアの次世代の人々が、その言葉を決して口にしない社会を作ろうと、私はその時決心した。
思えば、東アジアの国の友人と人生で一番多感な時期を過ごしたことが、私の人生では大きかったのかもしれない。そして、私という人間がいい意味で無知で、まだそんなにSNSなどが今ほどは発達していなかった時代だったからこそ、私は自分の中で彼らのイメージを、先入観なしに構築したのだと思う。
もし私が、歴史が大好きな高校生で近代史を読み漁って、毎日新聞やニュースをくまなくチェックして、本屋さんでも小説のセクションに行くのではなく新書のほうに行ってしまうようなしっかりしすぎた高校生だったら、私はおそらくアジアで昔何が起こったかを知り、韓国や中国の友人と出会った時に身構えてしまったと思う。
私は、いい意味でフレッシュで、真っ白だった。何も知らないから自分の頭で彼らを一人の私と変わらない人間として、迎え入れたのだと思う。
知識は、教養である。それは間違いない。けれど、今の時代、知識とグレーな情報の境界線が、低すぎる。
だからこそ私は思うのだ。高校生の私は無知だったが、フレッシュで、先入観なく、隣国の友人を見つめる事ができた。それと同じように、互いにとってのマイナスな要素が先入観になってしまわないような社会を作れば、次世代が東アジアの国と私のような出会い方を出来るとはずだ、と。
自分の頭で考えるという当たり前のこと。それはしかし、何もかもが容易に手に入る時代では、あまりにも難しすぎる。
特にせっせっと勉強するタイプでもなかった私が、東アジアの問題に関心を持ち始めた際に出会った問題が、なぜ慰安婦問題だったのか。よく、そう聞かれる。
私にそう尋ねる人のほとんどは何かいけないことでも聞いているかのように恐る恐る尋ねてくるのだが、今までの人生を単純に生きてきた私にとって、答えはごくシンプルだ。
知りたいと思った、ただそれだけ。
好きな人について知りたい、好きな歌手について知りたい、そういう感情と一緒で、私はどうしても彼女たちに何が起こって、世界がこの問題をどう考えているのか、知りたいと思った。
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でも私は今でも生きづらさを感じる。
誰もが当たり前にもっている好奇心で突き進んだ道なのに、私が知りたいと思った事は、社会ではあまりにもセンシティブな問題として扱われていて、発言を間違えると危ない人に思われてしまう、そういう空気があるから。
よく「好きな事を見つけなさい」と多くの人は言うけれど、それはある種の条件付きの中での事だったのだろうと、私は大学院に入ってから実感した。
社会で受け入れられ辛い「好き」は、誰でもある経験だと思う。恋愛が一番わかりやすいだろうか。喧嘩ばかりして、「この人と付き合っても絶対幸せになれない!」と思うし、友人に分かれた方がいいと言われる恋人を持った時。
頭では単純な答えが出せるのに、いざ行動にうつすとなると、「でもやっぱり・・・」という思いが邪魔をする。
私は慰安婦問題に関して知ることを辞めようと思ったことは不思議なほどないが、それでもやっぱり、嫌な思いをしたことはある。それは私という人間が、この「慰安婦問題を研究している大学院生」というレンズで判断されてしまうことだ。
例えば、大学院で留学していた北京である財団のとても偉い方と偶然が重なり個人的にお話しする機会を頂いたことがある。
話題が私の修士論文の話になったので私の興味関心を話すと、その方は私とまったく違う立場をもっておられる方だった。その場は和やかだった。それでも、その方にその後何通かメールをだしても、その方どころか、その財団から返事が来ることは、一切なかった。それまでは進路の相談や、キャリアの可能性に関して親身にメールを返してくれた財団でさえも、私との窓口を閉ざした。
私は異なる意見だって、聞きたい。それが暴力的な何かでない限り、横に座って、その人から学べることは学びたいし、どうしてその考えに至ったのか、知りたいと思う。そのことでその人個人の人生すべてを嫌いにはなりたくないし、私の周りから締め出したいとは思わない。
それでも、私はこの時痛感した。私の話を耳をふさいで聞きたくないと思う人が社会にはいて、それは私という人間の判断材料になってしまうことを。失うものがあるのかもしれないと、私はその時初めて実感した。
でも、私には上記のような経験をしても、東アジアへの情熱や、慰安婦問題に対する関心が途絶えない、十分な土壌があった。
私は、学部・大学院時代を通し、多くの国際会議やユースフォーラムに国内外で関わった。時には参加者として、時には運営として。私の青春は普通の大学生とは少し違ったと思う。私は休みの度に会議やフォーラムへ行くような人間で、学期中も機会があれば、教授の許可をもらって、そういう場所へ行った。
よく何のためにか聞かれた。答えは単純だった。私は、世界中の人が何を考えているのか、知りたかった。随所随所で様々な東アジアに関する質問をぶつけ、私の躊躇しない物言いに驚く人ももちろんいたが、多くの声を拾い、多くのかけがえのない仲間を得た。
そしてその中で、「美里と出会って、よかった」と言ってくれる人もいた。そういう土壌が、私にはあった。人と向き合えば、その先に必ずお互いのケミストリーが生まれる事を、経験から知って居たのだと思う。だから私は、自分の実現したい社会が可能だということを、信じているのだと思う。
ただ、信じる事と、そのゴールへの道を構築する事は、別だ。私が望む社会にするにはどうしたらいいのかということもそうだが、まだ慰安婦問題は私にとってどこかもやもやとした形をしていて、多くの声や情報の中で、私は混乱した。
そんな中、何の偶然か、私はたまたま、東京大学の公共政策大学院がCAMPUS Asiaという東アジアに特化したプログラムを始める事を知る。これはまさに私のためのプログラムだ!と直感で感じ、応募、書類審査と面接を経て、2013年の春、私は大学院生になった。
(後半、大学院に進んだ彼女が、ついに元慰安婦の当事者に出会います。以下をご覧ください!)