「【エッセイ・宇宙を泳ぐひと】第7回 僕は完全を夢見るちっぽけな不完全でありたい」のサムネイル画像

【エッセイ・宇宙を泳ぐひと】第7回 僕は完全を夢見るちっぽけな不完全でありたい

2020.09.06

笑っちゃうぐらい壮大な宇宙と
何でもない生活の狭間を
溺れるように泳ぎつづける。

そんな宇宙を泳ぐひと
宇宙工学研究者の久保勇貴さんによる
連載エッセイ。

「宇宙の基本的なルールのひとつは、完璧なものなんて何ひとつ無いということだ。完全なんて絶対に存在しないさ……だってもし不完全さがなければ、君も僕も存在していないだろうからね。」*1

スティーヴン・ホーキング

日曜日。8時半に目が覚めて、休日だしあと30分寝るかーと思って気がついたら15時半だった。おかしい。確かについ30分前まで朝だったはずなのに。これがウラシマ効果か。起き上がる。頭がむぉーっとする。どうやら計14時間寝てしまったらしい。外からブレーキ音が聞こえる。真人間の生活を乗せて走る電車のブレーキ音。そのあまりにまともな音程にカーテンを開ける気にもならず、罪悪感とフルーツグラノーラをざらざらと口に掻きこむ。とにかく失われた一日を一刻も早く取り戻すべく、襟元がへべれけのTシャツに財布だけを持って外に出る。近所の本屋に行って、スティーヴン・ホーキングが読みたかったんだけどホーキングの本は一冊も置いていなくて、そのまま電車。マスクも持たずに乗ってしまったので最後尾車両の隅っこで二駅分の息を殺し続けて、大きな本屋に着いて、ホーキングの最新作を買って、ふらふらと当てもなく歩いて、タピオカミルクティーを買って、タピオカをンヌチンヌチ噛んで、途中で甘ったるくて後悔して、ごみを早く捨てたくて苛立ちながら駅に行って、捨てて、電車に乗りこんで、ドアが閉まる直前、ホームの視覚障害者誘導用の黄色い点字ブロックに白いチョークで三角形の印が描かれているのが目に入って、閉まっていくドアの枠にその三角形が一瞬遮られた後、窓ガラス越しにまた現れて、でも、それは窓ガラス越しなのでさっきよりも少しだけ曇って見えて、それが、なんだかとてもイビツな光景のように見えて、その瞬間、じゅわわわわと涙が溢れそうになった。

ああ、不完全な一日だ。

不完全だ、僕も僕の生活も。なんだか歳を取るたびに僕はどんどん不完全になっている気すらする。毎日学べば学ぶほど自分の無学さを思い知るし。九九を完璧に覚えて無敵モードに浸っていた小学二年生の頃が恋しい。九九の早言い勝負で友達全員を負かして、「ふっ、いつでもかかってきなぁ!!」と主人公声で叫んでた時の僕は人類最強のオーラを放っていた。ガキは無敵。

ていうか、最近どんどん身体が不完全になっていっている。ハタチぐらいまではキリリと引き締まっていたはずのお腹も、今や「ぷよぷよフィーバー!」と無邪気に開き直りながら呑気にぷよぷよしている。歳を取ると丸くなるってこういう意味だったのか……。んん、老化だ。不完全だ。これから僕の身体はどんどんと不完全になっていくのだろうか。歳を取るって嫌だなあ。

永遠の若さなんて、もちろん夢のような話だ。しかし、そんな夢をさらりと叶えてしまっているものがこの世に存在する。素粒子だ。面白いことに、僕の身体は老化していっているのに、1000兆分の1ミリメートルのスケールで見れば僕の身体を形作る粒子自体は全く老化していないのだ。下のグラフを見てみよう。

基本的に人間は歳を取れば取るほど老化して死ぬ確率は上がっていくので、年齢・死亡率をそれぞれ横軸・縦軸に取ると左図のようにグイっと右肩上がりのグラフが描ける。しかし、同じ図を素粒子に対して描くとそのグラフは右図のように完全に水平になってしまうのだ。つまりどれだけ年齢を重ねても、全く死亡率(崩壊率)が変わらない。老化しないのだ。ほお、なんとこれは羨ましいことか。呑気な僕のぷよ腹も羨望の眼差しでグラフを見つめている。

ただ、素粒子といえどもやはり完璧というわけではない。素粒子研究所・KEKの記事は、素粒子のひとつであるミュー粒子の死亡率についてこう述べる。

生まれたばかりの若いミュー粒子も、壮年期のミュー粒子も、年寄りのミュー粒子も全く同じ死亡率を持つことが分かります。いやそもそも老化がないのですからミュー粒子には誕生という概念はあっても、壮年期や老年期という概念はあてはまりません。生まれて間もないミュー粒子も、生まれてから時間がたったミュー粒子も、同じように決まった確率で突然死をします。つまりミュー粒子は不老有死ということになります。*2

不老有死。

老いを知らぬ若々しい身体でこの世界を飛び回るミュー粒子は、若々しいままある瞬間に突然バラバラになり、その一生を終わらせられる。予兆も余韻もない突然の死。彼らは生まれたその瞬間から常に「次の瞬間に自分は突然死ぬかもしれない」という恐怖に晒され続けながら生きるのだ。永遠の若さと引き換えの、あまりに唐突であっけない死。まるで悪魔との契約。なんと恐ろしい人生だろう。僕らと同じように、ミュー粒子もやっぱり不完全だ。さっきまで目を輝かせていたぷよ腹も、「それならオイラはこのままでいいや~」とまた呑気にぷよぷよし始めている。できれば贅肉は突然死してほしい。

完全なものには憧れるけど、きっと僕らはどうもがいても不完全なんだろう。僕も、あなたも、アヒルも、丸ビルも、サーティーワンも、ミュー粒子も、きっとみんな不完全だ。みんなみんな、不完全から生まれて、不完全に囲まれながら不完全を生きるしかないのだろう。

科学も、不完全だ。というかカール・ポパーというおじさんが言うには、科学は本質的に不完全でなければいけないらしい。ポパおじ曰く、どうやっても否定しようのないような理論はどんなに説得力があっても非科学であり、実験や観察によって否定される可能性のある不完全な仮説だけが客観性を持った科学と呼べるのだという。せっかく一生懸命考え抜いた理論を「いや、あなたの仮説間違ってますけど」なんて冷静に言われた日には冷静に心が折れそうになるけれど、科学はそれでこそ科学であれるのだ。たくさんの不完全が寄り集まって、完全を目指しながら不完全な塔をどこまでも高く高く積み上げていく。そうやって科学は、5500万光年彼方のブラックホールの撮影に成功し、3億キロメートル離れた小惑星に60センチメートルの精度で探査機を着陸させた。科学は、完全を夢見る偉大な不完全だ。

でもそれって不安じゃないか。どれだけ完全を目指しても必ず不完全だなんて、なんだかとっても不安。それが不安だから人間は何千年間も、神様に祈り続けてきたんだと思う。全知全能、完全な神様。二度寝もしない、タピオカも買わない、引き締まったお腹の神様。完全無欠の神様を信じて徳を積めば、必ず天国へ導いてくれる。どうしようもなく不完全な僕らを包み込むように、宗教は完全で安心だ。

つい最近、神社で巫女見習いをしているという女性の方とひょんなことから知り合いになり、彼女が日々行っている奉納というものを見学させてもらった。神社へ行って参拝をし、神様へ笙(しょう)の演奏を捧げるという儀式だ。その方と僕の友人と僕の三人で、家の近くの稲荷神社へ行った。暑い日だった。

奉納の前に三人で輪になって手を繋ぎ、お祈りをする。「個人的に叶えたい願いを祈ってみて。」「願望を言うというよりは、その願いを叶えるにあたって伴う困難を受け入れる準備ができていますよ、その願いにとって障害となるものを手放す覚悟がありますよ、と伝える感じかな。」彼女は何か大きな力、僕たちよりもずっと完全な力を背負い、その力にそっと後押しされながら言葉を口にしているようだった。僕は具体的に何を願ったらいいかよく分からなくて、それでも、ただ「受け入れる覚悟がある」とだけ数回乱暴に念じた。繋いだ手にかいた汗がぬるりと混ざりあう。どことなく付きまとう将来への不安も、日々の不完全な生活も、僕は全てかき集めて乱雑に受け入れてしまいたかった。具体的にどうなりたいかなんて全然分からなかったけれど。

笙の奉納が始まる。普段はにこにこふわふわしている彼女だが、二礼二拍手を合図に顔つきが変わる。深くお辞儀をしながらお祈りの言葉のようなものを静かに呟いた後、笙を口元に添える。笙という楽器の形は鳳凰が翼を立てている姿にも喩えられ、その音色は昔から「天から差し込む光」を表す音だと言われているらしい。セミの分厚い音像の中を細く柔らかくすり抜けてきた天からの光が、僕の耳に届く。夏のコントラストが際立つ。影絵のように縁取られた葉の輪郭を見上げるとそれは木漏れ日で、グロテスクな点Pのように動く黒い物体を目で追うとそれは木の幹を這う蟻だった。浮き彫りになった夏の中で僕は生き埋めになりかけていて、それでもなんとか目の前の神々しい笙の音色から何かを感じ取ろうとしてみるんだけど、人間がじっとしている今がチャンス!と群がってくる蚊のことばっかり気になってしまって、集中しようとすればするほど余計にイライラしてきてしまって、そのうちに笙の奉納は終わった。神聖で完全な音色の前に、不完全な僕がむき出しになっていた。陽が傾いていた。手の平の汗は乾いていた。その日の夜に、去年付き合っていた人が結婚したと聞いた。「受け入れる覚悟がある」と誓ったばっかりだったけれど、上手くお祝いの言葉をかけてあげることはできなかった。

きっと僕はこれからも不完全なんだろう。お腹をぷよぷよさせて、凝りもせずタピオカを買って後悔する。将来のことなんかいつも全然分かんなくて、いつも少しずつ不安。未完成。途上。老いるし、死ぬ。てかなんなら死んだ後だって、分子レベルに分解されても素粒子レベルに分解されてもずっとずーっと不完全。そのうちに星が爆発して、遠く遠くの星まで吹き飛ばされていってもどこまでも不完全なんだろう、きっと。
不完全も、途上であることも、受け入れたい。神様の完全さにすがれるほど強くはないけれど、自分の力で少しずつ受け入れたい。受け入れたいけど、不安だな。受け入れられるかな。「途上だからこそ完全に向かう余地が残されてるんだ」なんてかっこよく言い切れるかな。今は自信が無い。自信が無いけど、でも、進みたい。前を向きたい。受け入れたい。僕は途上で、決してこれからも完成しないのだという事実を受け入れたい。あんなに偉大な科学だって、不完全なんだ。不完全だからこそ、途方もない宇宙の彼方まで僕らを導いてくれるんだ。僕は不完全だから、偉大な科学よりもずっとずっとちっぽけだから、だからせめて、完全を夢見るちっぽけな不完全でありたい。ありたい。ありたいなあ。

友人・知人の結婚報告をいよいよたくさん聞くようになった。演劇サークル時代の友人、尊敬する先輩、高校時代のバンドメンバー、高校時代に組んでいた漫才コンビの相方、塾でなんとなく会ったことあってなんとなくFacebookでも繋がっている知り合い、などなどFacebookを開けばいつでもお祭りモード全開である。フランスで料理修行をしていた友人は、同じくフランスに住む日本人の方と婚約したらしい。と言っても今はコロナの入国規制やらなんやらで全然手続きができず、まともに暮らせるのは一年半以上先だそうだ。この間に二転三転しないといいけどね!と冗談交じりに言っていたけれど、やっぱり不安もあるんだろうな。んー、まだまだ先は長いんだなあ。
そういえば幼稚園ぐらいの頃、母ちゃんに「そんなにキムタクが好きなのにどうしてキムタクと結婚しないの?」と聞いてしまったことがある。ガキは無敵。当時は家にたくさん置いてあったキムタクグッズを毎日見ていたので、キムタク=近所のかっこいいお兄さんぐらいの認識だったのかもしれない。もちろん母ちゃんを困らせるつもりはなく、僕としてはただ純粋な疑問を投げかけたつもりだったのだ。せっかくの人生なのに、どうして自分にとって完璧な人と結婚しないんだろう?完璧な人と結婚すれば完璧な結婚生活を送れるのにどうして母ちゃんは父ちゃんと夫婦喧嘩ばっかりしているんだろう?と。母ちゃんが口をモゴモゴさせながら表情を曇らせていったところから先はよく覚えていない。

結婚はゴールインと言うけれど、別にそこで完成してしまうわけではないんだろう。その時点で完璧である必要なんか全然無いんだろう。むしろ不完全な人間が二人揃って、より不完全なところからスタートしたりもするのかもしれない。そうやって不完全なまま二転三転四転と転がりながら、だんだんと二人で何かになっていくんだろう。そしてその何かも、きっと不完全だ。不完全だけど、それでいいんだろう、きっと。ゴールインどころか選手登録すらしていない僕には、まだよく分からないことだけれど。

お盆に電話した時、福岡のじいちゃんは「孫たちの結婚式に出るまでは絶対に死ねんばい!」とスマホのスピーカーがビリビリ音割れするほど力いっぱいに宣言していた。僕は末っ子だからとりあえず生返事をしておいたけれど、それに乗じて兄貴もそれとなく話を流そうとしていたのを見るに、まだ当面はじいちゃんに頑張って長生きしてもらうことになりそうだ。
ふと自分のお腹に目をやると、「早く良い人見つかるといいね~」とぷよぷよお腹が相変わらず呑気にぷよぷよしている。うるせえよ。お前にも責任はあるんだからな。ちったあ痩せろや。はい、痩せます。

<脚注>
*1 Into the Universe with Stephen Hawking – Discovery Channel, 2010より。訳は筆者。原文は “One of the basic rules of the universe is that nothing is perfect. Perfection simply doesn’t exist…..Without imperfection, neither you nor I would exist”

*2 『寿命はあるけど年はとらない』- News@KEK 2002.11.21 https://www2.kek.jp/ja/newskek/2002/novdec/life.html

宇宙を泳ぐひと

第6回の記事へ

宇宙を泳ぐひと

第8回の記事へ

この記事を書いた人
筆者のアバター画像
久保勇貴
東京大学大学院 航空宇宙工学専攻 博士課程。JAXA宇宙科学研究所にも籍を置き、様々な宇宙開発プロジェクトに携わる駆け出し宇宙工学者。 自身のブログ『ハルに風邪ひいた』『コンパスは月を指す』で宇宙を軸としたりしなかったりする文章を書く。 Twitter: astro_kuboy
記事一覧へ

こんな記事も読まれてます