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3Dプリンターでネイル…?コンゴ人エリートが東京で繋ぐ最先端ITビジネスとアフリカ

2018.08.27

港区のアフリカ

こんにちは、スイミーのゆうこです。

Little Africa in Tokyo連載では、東大を卒業し現在京大でアフリカ現代美術を研究している私が、「東京に息づくアフリカ」、東京の中の「小さなアフリカ」を紹介していきます。前々回記事前回記事では、「下町アフリカ」と題して荒川区の仕立て屋さんと楽器屋さんを紹介しました。

今回の舞台は打って変わって、港区六本木!大手IT企業!!東京タワー!!なかなかミーハーなアイキャッチとなりました。

読んだことないけど東京カレンダーみたいや!

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DMM.Africaのエリートビジネスマンと出会う

彼と出会ったのは、昨年の11月、京大の大学院の用事で出張し、パリから招聘したコンゴ共和国出身の教授の案内したときでした。
その教授との渋谷での会食に現れたのが、「六本木の会社に勤めている」という彼でした。

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Patrik Behuhuma(パトリック・ベフフマ)さん、コンゴ民主共和国出身、36歳。
DMM.comのアフリカ事業部で、ビジネス開発アナリストとして働いています。

フランス語と英語を完璧に操り(ちなみにリンガラ語とスワヒリ語も話せる)
笑顔を絶やさず
日本語で店員さんにも気を使いながら、注文と取り分けをこなし、
頻繁にくる連絡にスマホで応答しながら仕事をこなす彼。
日本人より日本人な気遣いとザ・国際的エリートなきらきら感。

数日先まで滞在する教授と私のために、東京のアフリカ関係者、アフリカ料理の飲食店まですぐに紹介してくれました。
どうやらとっても顔も広いみたい…。

彼の圧倒的なふるまいと人柄に魅了され、仕事について様々な話を聞いてみました。

「なんで日本で暮らすようになったの?」「なんでIT企業に勤めているの?」「DMMってアフリカもやってんの?」
こんなシンプルな疑問に、彼はひとつひとつ丁寧に答えてくれました。

彼が祖国で培った圧倒的な経歴と、日本でも学問を修めたこと!
DMMという会社が夢のような未来志向のビジネスを展開していること。
パトリックは明るい人柄を生かしてアクティブにアフリカ広報活動を展開していること!
そこに通底する彼の祖国やアフリカ大陸への思い…

私が渋谷の居酒屋で耳を傾けながら心を奪われたこれらの話をこの記事でみなさんにお届けします!
そして、彼の活動から、アジアとアフリカの新しい関係性が見えてくるのでした…。

パトリックの生い立ち

そもそもパトリックは誰で、彼は一体どうやって日本までやってきたのでしょうか。

1982年、11月18日にコンゴ民主共和国、北東部の街、キサンガニで生まれた彼。(「ミッキーマウスと同じ誕生日だよ」とのこと。)


▲キサンガニの都市部。NationStatesより

初等教育まではキサンガニで受けました。書き取りに困難があったので、私立の学校に移ったりしながら、中学への進学試験をクリアしたころ、内戦が始まりました。

日本でも良く知られた、94年に始まるルワンダの虐殺ですが、その後、虐殺を逃れたツチ・報復を恐れたフツの両者を含むルワンダからの難民150万人が隣国であるコンゴ東部に流入したことがきっかけで、WW2後最大の死者数を出すコンゴ紛争が始まったことをご存知でしょうか。(朝鮮戦争やベトナム戦争より多くの死者が出ています。)

▲お父様とお母様

東部は戦闘地域になってしまったので、西部の首都キンシャサまで家族で6日間かけて移動し、パトリックはそこで中等過程を終了しました。第一次コンゴ紛争は、大統領で独裁者であったモブツの亡命により一旦終結したため、高校ではキサンガニに戻り、会計や事務のようなことを勉強しました。しかし98年に第二次コンゴ紛争が再発、規模が拡大します。

彼が高校を卒業する2000年~2001年ごろ、コンゴは、西部をカビラ率いるAFDL・中部をベンバ率いるMLC(ウガンダ政府がバックにいる)・東部をワンバ率いるRCD(ルワンダに支援を受ける)に三分割されていました。そのような事情で、高校のある地元・キサンガニから、首都キンシャサへの移動だけでも困難が伴う時代。そんな状況の中でもキンシャサの大学に進学しました。

▲第二次コンゴ紛争は内戦という名の国際紛争だった。関係国は図の通り。Quaraより

キンシャサにあるコンゴ・プロテスタント大学に進学したパトリックは、そこで5年間法律を学びます。卒業後は、ロー・ファームでインターンシップをしたあと、試験(bar exam)に合格して弁護士に。そして、3年間国会で上院国際関係委員会長のアシスタントも務めます。まさに国を代表するエリート。

日本へ留学

そんなエリートとしてのキャリアを歩んでいた彼が日本に来るきっかけは、アシスタント時代、日本との文化交流事業に関わったことでした。「太鼓の先生」の世話をしたということですが、その文化事業の関係で日本に来るチャンスを得たパトリック。

そして、文部科学省のスカラシップを獲得し、2011年、日本へ本格的に留学。(アメリカやベルギーに行くという選択肢もあったそう。)最初は東京学芸大学で6ヶ月の日本語集中講習に通い、2014年からは明治大学に。専門職大学院・公共政策ガバナンス研究科で修士号を取ります。

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DMMってアフリカもやってんの?

大学卒業後、パトリックが日本で英語教師としてバイトをしているときに、リクルート会社に勤める友人が電話をしてきました。

「DMMという会社がDMM.Africaというプロジェクトを立ち上げるんだけど、興味ない?」

DMMは、動画配信事業とオンラインゲーム事業、FX等の金融サービスを主力に、オンライン英会話、モノづくり支援、太陽光発電事業、アミューズメントにフットボール事業、オンラインサロン等約40以上のサービスを展開するIT企業。最近では、実在する競走馬の小口の「馬主」になり、その育成もオンラインで楽しめる「DMM.バヌーシー」というサービスまで登場した、「なんでもやってる」を売りにする企業なんです。

履歴書を送って、一回だけ亀山会長と面接をして、次に来たのは「来週金曜日の会議に出てください」という連絡。2016年1月のこと。こうして、DMMでの「ビジネス開発アナリスト」としてのキャリアがスタートしました。なんだかまさにIT企業っぽいスピード感のある話ですね。

実は亀山会長が、休暇で尋ねたアフリカに魅力を感じ、帰国すぐ会社に立ち上げを告知したというプロジェクトが、DMM.Africaなのです。現在も会長直轄のプロジェクトとして、自社のアイディアでビジネス・サービスを開始したり、新しい才能を発見して大陸のベンチャー企業と提携したり。広いアフリカ大陸で「なんでも」やるのがDMM.Africa。

「入社後は、会長に100万円もらって、プロジェクトパートナーを見つけるために、コンゴ、エチオピア、南アフリカ共和国に2ヶ月間行ったんだ。」

東大生なら、これからの可能性はアフリカだ的な話を一度か二度は耳にしたこともあるかと思いますが、DMM.Africaはまさにこれから広がるしかないアフリカのマーケットに参入し、広範な事業を展開しています。

アフリカ大陸では、日本でいう昭和を支えてきたようなインフラ、たとえば固定電話やFAX、さらに銀行や郵便などのシステムがあまり普及していません。その分かえって、スマートフォンや電子マネーなどの普及が急速に進むのです。ケニアやルワンダなどの進んだ国の都市部では、日本よりWifiが入るなんて話もあったり。そんな未来を拓く事業をご紹介しましょう…!

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はじめまして! @balenoptereです。UmeeTのライターをやっています。よろしければ私の書いた記事を読んでいってください!
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