καὶ μὴν τό γε ἡδὺ ἐν ψυχῇ γιγνόμενον καὶ τὸ λυπηρὸν κίνησίς τις ἀμφοτέρω ἐστόν: ἢ οὔ;
魂に沸き起こる苦痛と快楽、どちらも一種のざわめきだとは思わないかい?(プラトン、『国家』583e)
ひょんなことから、インカレサークル「ホノルルマラソンを走る会」の新歓記事を担当することになった私だが、執筆は難航中である。生まれてこの方、哲学論文以外手がけたことのない象牙の塔の住人に、新入生を引き付けるドラマティックでエキサイティングな記事を期待するほうが正直どうかしている…
…と文句の一つも言いたいところだが、しかし引き受けてしまったからには後戻りはできない。フルマラソンと私の記事、どちらがより苦行だったかは、私には内緒にしておいてほしい。
その者、群衆の中にたたずみ、辺りを覆いつくす氷のような熱気を肌で感じ取っていた。半袖半ズボンではまだ少し寒さの残る五月のことである。スタートの合図が刻一刻と迫ってくる。
もう何度目だろうか、その者は靴紐の結び目を確かめるかのような仕草でしゃがみ、再び立ち上がる。なくて七癖、スタートを待つこのひと時の永遠の中、その者は繰り返ししゃがんで、そして立ち上がって、両足の靴紐にそっと手を触れていた。高まる鼓動の具現化なのだろうか、程よい緊張感である。
そして群衆のざわめきはその者の心とうらはら、小刻みに、繊細に、それでいて力強く振動していた。「τὰ δὲ [παθημάτων] δι᾽ ἀμφοῖν ἰόντα καί τινα ὥσπερ σεισμὸν ἐντιθέντα…(一方で、魂と肉体両方を貫通する快楽は、地鳴りの如く…)」(プラトン、『ピレボス』33d)
半袖にはやはりいささか早すぎたか、いずれにせよ静電気のような震えである。実にすがすがしい。
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マラソンは走るものではない、生きるものである。
そして同時に死にゆくものである。スピノザは、生きとし生けるものは皆 conatus の法則に遵うと考えた。Conatus essendi、すなわち己の生、己の存在をあらゆる手段をもって継続させるものである。
その者はふと思った、ならばマラソン選手とは生物ならざる存在なのか、conatus に反しているのか?
無論そんなことはない。マラソンの父、古代ギリシャ人フィディピディスが、およそ40キロを駆け抜けギリシャ軍の勝利を伝達したのちに命尽きたとはあまりにも有名な話だが、彼は決して生に背き、死に向かって地を踏みしめたのではない。
生死の即非を超えた生、絶対肯定の生を得んがために、彼は己の命を捧げたのである。地位や名声などという世俗の徳ではない、かようなものは付随品に過ぎない。彼が望んだのは真の生、生きることの真理である。まことの生と引き換えに、偽りの生を捨てたのである。
そして、彼はその身に残された最後の一息を振り絞り、こう叫んだのである:νενικήκαμεν、勝ったぞ、と。勝利の主体はギリシャ軍だけではない。マラソンを走る者ならば、フィディピディスの絶叫にもう一つの意味を読み取る、いや、己の肉体を介して感じ取るであろう:νενικήκαμεν、完走したぞ、と。
何人の心にも潜む弱み、苦痛、怠惰、自愛、そのすべてを克服し征服した者のみに許される言葉である。フィディピディスは紛れもなく打ち勝ったのである。自分自身に打ち勝ったのである。そして、真に生きたのである。これぞ conatus の本義ではなかろうか。
サド以来、苦楽不二の真理はすでに疑いの余地がない。言うまでもなくマラソンとは身を引き裂くような痛みとの戦いである。加えて先の見えない長期決戦、ペースを緩めようものならこみ上げる罪悪感に押しつぶされる。どうあがいても苦しみからは逃れられない。しかし、だからこそ同時に耐えがたい快楽との戦いでもある。底なしの苦痛と快楽の渦、それらがひたすらにひしめくのがマラソンである。
そして、いかなる変遷の渦にも一点の絶対平安が存在する、プラトニズムの真髄である。「μεταξὺ τούτοιν ἀμφοῖν ἐν μέσῳ ὂν ἡσυχίαν τινὰ περὶ ταῦτα τῆς ψυχῆς;(これらの真ん中、二つが均等になるところ、それは魂の凪ではないかね?)」(『国家』583c)
陸風と海風が入れ替わる瞬間、すべてざわめきが消え、絶対的な静けさが訪れる、それが凪である。この世のものとは思えぬ沈黙、それはざわめきに対抗して、ましてやざわめきを取り押さえるために存在するのではない。ざわめきがある故に凪が存在し、ざわめきの中からこそ凪が生まれるのである。
その者はプラトンをこう理解した、いや体得した。忙しい日常においては、ひと時の休息といえど常に何かしらの邪魔が入る。たとえ床に就こうと、人は渇きに襲われ、悪夢にうなされる。そこに真の平安など存在するはずがない。
ならば、いたずらに憩いを求めるのではなく、むしろ極限にまで心身のざわめきを高め、魂の凪を得るべきではなかろうか。マラソンという台風の目、終わりなき苦痛と快楽の弁証法的衝突の一歩先、そこには悟りにも似た静けさがあるはずだ、その者はそう思った。人はそれをランナーズ・ハイと呼ぶらしい。魂の絶対的凪、それがマラソンの究極の姿である。
その者、そしてその者とともに走る者たちは、凪を求めてひたすら走り続ける。
ゴールテープは、通過点に過ぎない。競い合い、笑い合い、そして高め合う仲間とともに、究極のマラソンを望む者たちの旅は終わらない。もっとも、終わってほしくないだけなのかもしれないが。
その者は思った、苦楽は己のうちに包摂される孤独なものだが、凪はそうではない。皆で一緒に見る夢、つかむ目標なのだと。フィディピディスとて、決して一人で走っていたのではない。ギリシャ人ひとりひとりの思いを背負い、またそれらを追い風に、アテネまでの一本道を走り抜けたのである。
そしてその者はささやかにほほ笑んだ、私はホノルルマラソンを走る会に所属して、幸せだと。我らともに走る、ゆえに我らある、のだと。
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ここまでたどり着いた諸君は、マラソンの素質が十分に備わっている。ぜひ、一度練習に参加してみてくれ!毎週水曜日・土曜日17:00、代々木公園で待っているぞ。
詳しくは、http://www.honomara.net/ まで!