旅は学び~台湾長期登山と歴史探訪の記録

2016.04.23

toyojapan1

僕は2015年4月から2016年3月まで一年間休学した。今回はその中で台湾に滞在した3ヶ月間を振り返って見ようと思う。

台湾へ行った目的

台湾に行った目的は主に2つあった。

1つ目は台湾の山に登りたかったからである。僕は休学前、ワンダーフォーゲル部で日本各地の山を登っていた。その延長で海外の山にも登ってみたかった。そして台湾は一番近い海外であったし運の良い事に、北京での語学留学を終えたばかりの僕は中国語を使ってコミュニケーションが取ることができた。

しかし、単純に「山に登りに行きます」では、休学中の貴重な時間を使う理由として不十分だった。せっかくなら他の誰もまだやったことがないことに挑戦したいと思った。

そこで、台湾の山の動植物・歴史・自然保全活動などに理解を深め、それを旅行記と共に日本語・中国語で発信するという目標を立てた。

夕暮れ時、西南稜の断崖から望む台湾第二の高峰・雪山(3886m)。雪山は二番目に高いということから日本統治時代は「次高山」と呼ばれていた。


2つ目の目的は日本統治時代の台湾で生活した祖母の記憶を辿るためである。祖母は18歳まで台湾で生活した「湾生(台湾で生まれ育った日本人)」なのだ。ひょんなきっかけで祖母の母校である台南高等第一女学校(現:台南高級女子中学)に当時の建物がまだ残っていることを知った僕は、是非訪問してみようと思った。写真を撮ってきて、それを祖母に見せてあげればきっと喜んでくれるのではないかと思ったのだ。

当時のクラス写真。女学校には第一女学校と第二女学校があり、日本人の生徒は主に前者に通った。


こうして、9月中旬、僕は期待と不安を胸に台湾に旅立った。期待というのは上述のような大きな目標を持って旅立ったからであり、不安というのは台湾にまだ一人として知り合いがいなかったからだ。

台湾での登山

台湾に到着し、まずは国立台湾大学登山社(日本でいう山岳部・ワンダーフォーゲル部に相当する)と連絡をとり、情報・地図などの準備を手伝ってもらった。そして、植物地理を研究している登山社OBの人の下宿に居候させてもらいながらあちこちの山に登った。

台湾の山からは日本統治時代の歴史を垣間見ることができて興味深い。例えば台湾の多くの動植物には、当時つけられた和名がある。台湾のフィールドに分け入り、その動植物を初めて学術的に研究したのは日本人研究者だったからである。

玉山山蘿蔔(ニイタカマツムシソウ)
玉山抱莖籟簫(ニイタカヤマハハコ)

また、台湾の山名には日本にゆかりのあるものも少なくない。

山容が日本・北アルプスの剣岳に似て険しいことから命名された「大剣山(3594m)」
山地原住民との戦争で命を落とした第五代台湾総督の苗字から名付けられた「佐久間山(2809m)」

その他、日本人が当時残していったものが見つかることも多い。

台湾滞在中、国立台湾大学登山社の人達と一緒に日本統治時代の古道跡や森林鉄道跡を訪ねる機会があった。既に役目を終えた当時の古道や鉄道は、藪に埋もれつつあり崩壊が著しい。棘のある植物を掻き分け、鋭利な葉を持つ植物に手の皮膚を切り傷だらけにされながら70年以上前の面影を探したあの旅は忘れられない思い出だ。

日本統治時代の古道上にあった吊橋。片仮名で「ロオン橋」と書かれている。
吊橋の近くには「キリンビール」の文字が刻まれた瓶が転がっていた。
大平洋戦争中に木材供給のために建設された森林鉄道跡。
この森林鉄道は、日本統治終了後も使われ、30年ほど前に廃棄されたという。

また、日本で山岳紀行文と言えば深田久弥の「日本百名山」が最も代表的だろうが、台湾では1920年代~40年代に活躍した鹿野忠雄という日本人研究者が台湾の山を歩き回って書いた「山と雲と蕃人と」という紀行文が中国語訳されて広く読まれている。
 
 これらの歴史的に興味深い要素を抜きにしても、3000m以上の険しい山が200座以上連なり、遡行に1週間以上が必要な大渓谷を多数擁する台湾の山々はそれ自体として素晴らしい。僕はとても充実した時間を過ごした。

山頂付近に大きな氷河地形を持つ南湖大山(3742m)の朝焼け
台湾東北部、基隆郊外の山から大平洋を望む。与那国島まであと100キロ。

台湾と日本、そして中国

山に登っている時以外は主に台北に滞在して登山社の人達を中心に様々な人と話した。その中で面白いと思ったことが何点かある。

 台湾は「親日」なのか?

僕は以前、自分のブログに「日本人から見た台湾」という記事を投稿した。簡単に記事の内容を要約すると、祖母が台湾で暮らし、曽祖父が教師として台湾統治の最前線に立っていたという家庭背景を持つ自分にとって、日本人はある程度しっかり台湾を統治していたと信じたいところがあるし、実際現代の台湾が親日的であることは僕にとって一種の救いである、という文章だった。

台北にあった台湾神社(1944年に台湾神宮と改称)の前にて記念撮影する女学生達

その記事を読んだ台湾の友人の間では色んな反応があった。そして、一番的を得ていると思ったのは例の居候させてくれた友人の言葉だった。盛岡冷麺と尾道ラーメンをこよなく愛し、北アルプスから東北・北海道まで様々な山を歩いたことのある彼は、記事をすごく熱心に読んでくれた後こんな風に言った。

「日本人は、台湾人が日本統治時代に対して良い評価を持っていると思っているかもしれないけれど、僕に言わせるとそれは違う。日本統治時代には色々な酷いこともあったんだ。でも僕は日本が嫌いと言っているわけでは決してないよ。実際、僕達台湾人の多くは日本のことがとても好きなんだ。だけど、それはあくまでナウシカが好きだったり、日本を旅行するのが好きだったり、つまり現代の日本の文化や日本の綺麗な自然に対して憧れを持っているからであって、決して過去の日本の行いが良かったからという理由で日本を好いているわけではないんだよ。」

それを聞いて僕が思ったのは、私たちが台湾を「親日」と言う時、その内容についてもっと深い考察が必要であるということである。多くの日本人は台湾を「親日」と言う時、それをいつも「日本統治が良かったから」という「歴史観」の問題に無理矢理持っていきがちである。でも、それでは現代の台湾人が日本に向ける眼差しとの間に大きなズレが生じてしまうと僕は思う。

今を生きる台湾人の多くにとって日本統治時代というのは、「かつてそういう時代があって、功罪共にあった。」という一つの事実に過ぎないと思う。つまり、日本統治時代は台湾島の歴史の一部に過ぎないから、それが「今とは違った佇まいを持っていた台湾」としてノスタルジアの対象にはなっても、だから日本が良い/悪いという風には(政治の世界ではありえても)一般レベルではあまり結びつかない。彼らにもし「親日」という感情があるのなら、それは現代の日本に向けられた部分の方が大きいのではないだろうか。

あるいは仮に「親日」感情の由来が現代ではなく過去にあったとしても、それはある時僕がお話をしたお爺さんの「僕は当時○○○○という名前だったんだ。昭和天皇と誕生日が同じでね、だから誕生日が来ると記念品なんかをもらったりしてね・・・・そうそう、そういえば僕は東京にも大阪にも行ったことがあるんだ。」という言葉に表れているような、日本人として少年時代を暮らしたことへの懐古的感情に基づく「親日」であり、日本人が希望するような「日本統治時代が良かった」という意味とは異なっていると僕は思う、いうことを付け加えておきたい。

中国との関係は?

また、台湾というと大陸中国との関係も取り上げざるを得ない。ある時、友人の女の子が「私は海外に行く時、台湾人としてではなく大陸の中国人と一緒のように見られてしまうのが凄く嫌なの。」と言った。確かに僕も今でこそある程度区別できるものの、以前は日本に来る中国・台湾・香港などの観光客をざっくりと「中華圏から来た人達」としてしか捉えることができなかった。しかしそのことを快く思わない台湾の人は少なくない。

中国・北京
台湾・台北

台湾では台湾人意識が増大していると言われる。

僕の友人の中には、大陸とのつながりを想起させる「中華民国」が印字されたパスポートを是とせず、その上に「台湾国」と書かれたシールを貼っている人がいた。また、ラジオなどを聞いていると「台湾というこの土地で・・・」「台湾という美しい島で・・・」というような言葉が一種の定型句として使われているように感じる。台湾の自然・歴史を理解しよう、自分達の住むこの台湾島のことをもっと知ろうというような流れは強くなっている。

少し前に「看見台湾(日本語版:天空からの招待状)」という台湾の国土を空撮したドキュメンタリー映画が記録的にヒットしたが、それはまさに「台湾を知ろう」という人々の思いを体現していたからだと思う。

そしてつい最近行われた国政選挙は衝撃的だった。あの時、台湾の多くの大学生が、同郷の人同士で夜行バスをチャーターして故郷に帰り一票を投じた。また、米国や欧州に留学している台湾の学生達の中には、一票を投じるためにわざわざ高い飛行機の往復チケットを買って一時帰国した人も少なくなかったという。台湾の未来は台湾の自分達が決めるという意識がとても強くなっているのである。

台湾という場所の特殊性

台湾の街を歩くのは面白い。日本的要素と中国的要素が面白い具合にミックスしているのである。神社の社務所跡が街中に現れたかと思うと近くには孔子廟があったり、神社の鳥居をくぐって参道を歩いた先に中国式の廟があったりする。僕はその包容力に深く感銘を受けた。同じことが日本で、中国本土で可能だろうか。

日本家屋の門構え、瓦屋根にししおどし。中華文化を象徴する福の字、赤提灯と対聯。それらが融合し和中折衷とでも言うべき様式を作り出している。
台湾東部・花蓮近郊に残る神社跡。鳥居をくぐり、参道を歩いた先には中国式の廟がある。


そして街を離れて山岳地帯や東部の海岸地帯に行くと、今度は独自の生活様式を持った原住民が数多く住んでいて、村の中に石造りの教会が現れたりする。このように台湾という島の上には多くの異なる要素が共存している。

太魯閣峡谷の入り口の村に佇む教会。

僕は先ほど、台湾では「台湾人意識」が興隆していると書いた。他国民のお節介を承知で敢えて言わせてもらうならば、その「台湾人意識」というものは決して他を排斥する態度であって欲しくないと思う。台湾が台湾としてのアイデンティティを持つとしたら、それは台湾島の上に客家を含めた漢民族と、山地に暮らす原住民、時代の過客となった日本、というように様々な要素が融合しながら共存しているという点を基礎にしてほしいと思うし、それは例えば「大陸中国への軽蔑と排斥」や「反日的な感情」などとは無縁であって欲しいと思う。

祖母の母校訪問

帰国前、祖母の母校に電話を入れて訪問のアポイントを取った。突然の訪問だったが、学校側は大きな歓迎を持って迎えてくれた。学校は日本統治時代に作られ、来年で創立100周年を迎えるという。その記念イベントの幹事をする女性教師が当時の建築が残る校舎を案内してくれた。

更に彼女は僕の祖母の名前と卒業年次を聞くと、校内に保存されている昔の資料群を探し始めた。そして、何と見事に当時の祖母の成績表・身体測定の記録がまとまった一枚の紙が見つけ出されたのである。

成績は結構良かったようだ
当時の教師には「温順」「まじめ」などと評されている。

何と70年以上前の生徒の記録、しかも日本統治時代の記録が今も大事に保存されていることに僕は驚きというか感謝というか言葉にならない思いだった。この記録は大事にコピーして、記念品などと共に日本に持ち帰ることになった。後日それらを祖母の家に届けた時、祖母が感激したことは言うまでもない。

台南高等第一女学校(現:台南高級中学)にて。日本統治時代に建てられた「紅楼」の前で記念撮影。


台湾に滞在していた3ヶ月、僕は定期的に滞在記を日本語/中国語で書いた。中国語の部分は登山社の友人達に添削してもらった。僕は多くの人々の親切を受け、大きな幸せに包まれながら帰りの飛行機に乗った。

旅をするということの意義

僕達はある一つの地域に対してもの凄く画一的なイメージを持っていると思う。例えば「台湾」と聞いた時に多くの人が思い浮かべるのは「親日」「小籠包」といった具合だろう。もちろんそれが間違っているとは言わないが、極めて限定されたイメージであることは確かだ。

一方で今、3ヶ月の滞在を終えた僕が台湾と聞いた時に思い浮かぶのは、まず世代・地域・家庭背景によって異なる言語(台湾語・中国語・客家語・日本語…)が使い分けられる特殊性であり、朝食店で食べる蛋餅であり、プラスチックの椅子と机が並ぶ店内で食べる陽春麺・炸醬麵であり、中毒的に美味しい滷味と臭豆腐の屋台であり、原住民の村の段々畑であり、列車の車窓から眺める水田と廟が織りなす美しい景色であり、聳え立つ中央山脈の峰々と雲海である。

僕にとって旅をするということの意義は、このようにある土地の具体的でかつ多様な姿の一端に触れられることだ。その土地の全てを把握することなんて一生かかっても不可能だし、自分の見聞によって得た地域像というのは自分の嗜好によって選別され、かつ、主観性に満ちたものにならざるを得ないのは確かだ。

けれども、少なくとも自分の中で「ここはこういう場所なんだなぁ」という、まだ漠然としているけれど適度に具体性を持ったイメージが形成されていく。そして日本の中の東京という、一種の特殊な世界に住んでいる自分の頭の中の地図と世界が徐々に広がっていく。もっと言うならば、東京にいながら今同時的に台湾、中国、韓国、インド、ニュージーランド(僕が長期に滞在したことのある国々である)でも時間が流れ、人々が生活していることを具体的に想像することができる。

だから何?と言われると答えに窮するのだけれど、僕はこういった感覚が僕の人生を豊かにしてくれているなぁと思っている。
 

この記事を書いた人
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はじめまして! toyojapan1です。UmeeTのライターをやっています。よろしければ私の書いた記事を読んでいってください!
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