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【義務教育1年のみ】8年間不登校だった特別支援級出身者が東大に合格するまで

2024.11.08

8年間不登校・引きこもり、高校は通信制、1年の宅浪を経て東大に入学。

 そんな、異色の経歴を持つ東大生が存在するらしい。小学校から塾へ通い、中高は名門校でガッチリと勉強をして入学、といった学生が東大の多数派だろうというのに。その人物はとんでもない天才なのか。その人生に迫るべく、さっそくコンタクトを取って話を伺ってみた。

学生証
  1. お名前:田中秋徳さん
  2. 所属:文科三類2年
  3. 備考:小中不登校→通信制高校→浪人→東大

──今日は、田中秋徳さんにインタビューをしたいと思います。田中さん、よろしくお願いします。

 よろしくお願いします。

苦しかった幼少期

──8年もの間不登校だったとのことですが、差し支えなければ、不登校になったきっかけなどがあれば教えていただけないでしょうか。

 きっかけみたいなものは特にないんですが、小さい頃から人付き合いに関して極めて不器用だった、この一言に尽きると思います。

──と、言いますと…?

 集団生活を送る能力を持っていなくて、例えるならばチンパンジーの群れにライオンを1匹放りこんだような感じでした。先生の指示が聞けなかったり、周りの子と同じ行動ができなかったり、とにかく落ち着きがなかったりと、「クラスに1人いるちょっと危ない子」をイメージして貰えれば分かりやすいと思います。

 生まれつきぼーっとしているところがあるのと、耳が悪かったというのがあるので、幼稚園から小学校1年生に至るまで、集団全体に対する先生の指示みたいなのが全然聞けませんでした。指示が聞けないなりに周りの子の真似をしてなんとかやっていた、という感じです。学校に行くことが本当に苦痛だった。

小学生のときの田中さん

 

小学校2年生に上がるときに1日だけ行ったものの、あまりにも辛くて、その後は全く行けなくなりました。学校に行かなくなった後に医療機関にかかったら「発達障害」との診断を得たので、そもそも人と混ざって生きるように身体ができていなかったんだと思います。

 おまけに生まれつき睡眠障害があり、普通の人間と睡眠周期が違うんですね。なので周りの子供と同じように毎日学校に通うというのは、私にとってとても重労働でした。

──なるほど…。伺った話によると、高校は通信制でおまけに宅浪だとのことで、「集団に馴染めないが知的には物凄い能力を発揮する天才」みたいな人物像をイメージしてしまうのですが、何か飛び抜けた能力などはお持ちだったんですか?

 恥ずかしながら、全く(笑) よく障害がありながら私のような経歴で東大に合格したと聞くと、いわゆる「ギフテッド」的な人物を連想されたりするんですが、私個人は飛び抜けて才能がある訳ではないと思います。むしろ、物覚えはものすごく悪い方だと思います。

 東大に入ろうと決めたのが中学二年生くらいの時だったと思いますが、そこからみっちりと勉強して宅浪を経てようやく合格、という感じなので、勉強の進度や効率もあんまりよくなかったです。

 苦手な数学に至っては高校三年間の学習時間の大半をそこに捧げましたが全く成績が伸びなくて、直前に受けた東大志望以外も受ける一般的な全国模試で偏差値60にも届かなかった記憶が(笑) 本番でも一完もできず現役では5点、浪人では10点。悔しかったので開示の点をよく覚えています。要領がいい方ではないですし、自分で自分を才能ある人間だと思ったことはないですね。

──学校に行かないで勉強していた、とのことですが、ずっと家にいたという感じですか?

 基本的にはそうですね。勉強していたというのも中学生に上がってからの話で、小学生の時はろくにしていなかった。民間のフリースクールや公立の適応指導教室に通ってはいたので、ギリギリ義務教育には追いついていたという感じです。

 親や先生が無理矢理やらせようとするんだけど、言い訳にするようで嫌ですが生まれつきの障害もあるし、やらされたものはやりたくないというクソガキ根性もあるし(笑) その当時は勉強が楽しいなんて思ったことは一度もなく、勉強をやらないことで怒られた記憶しかないです。

──勉強が好きだったわけではないんですね、意外です。家にいるときは何をされてたんでしょうか。

 小学生の時はパソコンにひたすら向かっていて、1人で動画や掲示板を見ていました。とにかく寂しかったので、無意識のうちに人との接触を求めていたのかなと思います。それ以外はビデオゲームをずっとやっていたかな。正直ネットもゲームも楽しいわけではないんだけど、現実を見たくないから逃げるために没頭していたという具合で、この時期はとにかく辛かった。

 おまけに姉も不登校だったので、狭い空間に小さい子供が2人いると喧嘩も絶えないし、家庭も機能不全に陥っていましたね。母は学校に行けない私の心情を理解しようとして現状を良い方向へ持っていこうとしていましたが、父は良くも悪くも規範意識が強い人で「なんで行けないのかよくわからない」という態度だったので、それが辛かったですね。

──そうなんですね…。思い返して一番辛かったことをお聞きしてもよろしいでしょうか。

 日に日に疲弊していく母親、「なんでこんな子供のために働かなければならないのか」とまで言って憤る父親を傍目に、人が普通にできる「学校に通う」というのができないせいで周りの人を傷つけてしまう、ということに子供なりに罪悪感を抱えていまして、それが辛かったです。なんでこんなこともできないのだろう、という自分に対する無力感に打ちひしがれていたように思えます。

「学校に行っていない」という引け目が絶え間なくあったし、日中、他の子が学校に行っている時間帯に出歩いていて近所のおばさんなんかに「学校はどうしたの?」と聞かれるのも嫌だった。「従うべき規範に従っていない・従えない自分」を常に意識させられていた、そんな毎日でした。

 地元の中学に進学した時も特別支援級に在籍していましたし、高校も通信制高校だったので、社会の王道から外れているという疎外感が常につきまとう人生だったと振り返って思います。いつも自分の中に敵がいる、と言えばいいのでしょうか。

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東大合格を決意

──中学2年の時に東大に入ろうと決意なさったとのお話ですが、何かきっかけなどはあったんでしょうか。

 中学1年にあがった時に全く勉強をしない私を見て両親が流石にまずいと思ったのか、塾に入れてくれたんですね。そこでできないなりにコツコツ勉強してたら成績が伸びていって、それで先生や親に褒めて貰ったのが嬉しかったのがきっかけだったと思います。基本的に家にいて他の学生と違って部活もないのでずっと勉強していました。

 中学の定期テストも相談室で受験していたんですが、1年生の最後では学年2位になったので、我ながら「俺、勉強できるかも」と思いました。でも、裏を返せばそれ以外で人に褒められたり、何かが成長した経験が全く無かったんですよ。だから始めたばかりの勉強がちょっとできるようになった程度で舞い上がって、「東大に行くしかない」と思うようになりましたね。

 今思うと、「働きたくないから宝くじで一発あてる」みたいな思考回路に近い、何か大きなもので全部逆転しようっていう、かなり無謀な思考回路でした。典型的な夢追い人というか、ダメ人間です。

 加えて、最初は軽い気持ちで「東大に入りたい」と言ってみたら、当たり前ですが周囲から総すかんを食らったというか、「入れないだろうけど、まあ頑張ってみたら」というような反応を受けました。確かに現実味はないし突飛な話ではあるんだけど、自分の能力というか、未来を否定されたようで凄く悲しかったんですよね。見返してやりたいという気持ちもあったし、どうしても自分の可能性を信じたいと思って受験を決めました。

死に物狂いで勉強した高校・浪人期

──高校は通信制だったとのことですが、「通信制から東大に合格」というのは物凄く難易度が高いように思えるのですが…….。

 正直、私はあまりそう思いません。なんなら、普通科に通いながら合格できる人の方が凄いと思います。高校は通信制ではあったんですが、いわゆる「サポート校」というやつで通学して学習するスペースがありました。それに先生方が手厚くサポートしてくれていたので、現役時代は基本的に高校に行って普通の学生のように学習する、といった感じでした。おまけに東大卒の先生もいたので色々と大学後の話も聞けました。

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「通信制から東大合格」は珍しいと思われがちですが、もし自分で学習計画を構築できるなら学校行事に煩わされることがないという点で、勉強だけに専念する環境が整っておりかなり恵まれていたと思います。

 通信制高校というのは卒業することだけ考えるならば、すごく簡単なんです。物凄く簡単なテストと、教科書を書き写すだけのスクーリングを半年毎にこなしていけば、誰でも卒業できる。人間関係は希薄ですが、裏を返すと勉強以外何もしなくていいので。

──通信制にも利点はあるんですね。

 はい。一般的な学校と比べても自由度はかなり高いと思います。しかし、何が悲しいって周りに東大目指してる人なんて誰もいないし、誰も私が東大に受かると思ってない。それにイベントなんて何もないから、何もしないと本当に何もしないまま毎日が過ぎてしまう。3年間勉強以外は何もせずに僧侶のように過ごしていました。今思い返すと完全に修行です。毎日やるタスクを決め、それをこなし、というのを毎日続ける。

高校卒業時の田中さん

 私の場合、小中不登校で高校も通信制となると経歴がかなりまずいことになりますから、「何としても東大に」という強い思いで半ば屍のように勉強を続けられていましたが、周囲を見渡すと目標のない日常に押しつぶされて辛そうにしている学生は多かったように思います。

 私が通っていた通信制は「通信制なのに大学進学を目指す」というのがウリだったので、進学校で落ちこぼれてきたような学生が多かったんですが、元々のルートに乗っていれば到達できたであろう未来と現状のギャップに苦しんで、周囲へのマウンティングみたいな歪んだ方法で発散しようとする子が結構多かった。

──浪人期間はどう過ごされていましたか?

 家の近くに自習室を借りて毎日通っていました。極力お金を使いたくはなかったのと、集団授業は集中力が続かなかったり、周りに人が沢山いる環境が辛かったりなど色々な理由で予備校へは通いませんでした。高校の時点で修行僧のような生活だったので、浪人期が特に辛かったりした記憶はないです。

 だらけないように5分刻みで一日をスケジューリングして、その予定に沿って行動していました。自分をプログラムされたロボットだと思い込むというか。休みの時は7本連続で映画を見るようにしていました。それだけ映画を見てると「もういいよ!」ってなって机に向かうようになるんですよ(笑) 

 あと、自習室から帰ってきて自宅で勉強する時は家の中を歩きながら勉強していましたね。多動症なので座っていたりするとどうしても身体が動いてしまうんですが、自宅にいる時は気にしなくていいので、身体を動くに任せたまま注意力だけは参考書に向けていました。それこそ、階段を上り下りしながら単語帳を覚えたりとか。

──なるほど…。予備校に通わず合格なさったということですが、勉強面において何か心がけていたことはありますか。

 極論、できないことは諦めるようにしました。さっき言った通り数学はどんなに勉強してもできるようにならなかったので、浪人期の夏からは捨てるようにしました。高校時代の3年の学習時間の大半を数学に割いてしまったのでためらいはありましたが、正直浪人に差し掛かっても伸びる未来が見えなかった。おまけに高校時代から金融業やアクチュアリーなど数学に関わる職業に興味があったので、「自分は数学ができない」と認めるのは結構しんどかった(笑)

田中さんの本棚の一部

 

 しかし、さっき「可能性を信じたい」とは言いましたが、やっぱり人間できないものはできないし、自分が得意だと思ってることは自分の中で相対的に得意かもしれないけど、絶対評価して世間的に判断して貰ったら大した水準じゃないんですよ。その状況でコストを割いても上達しない科目に時間をかけて、得意なものは中途半端なまま放っておいたら、何もできないまま人生終わってしまう。そう思ったので、「できないけどできるようになりたいもの」はスッパリ諦めて、「今まあまあできるもの」を徹底して伸ばすようにしました。

 数学は最低限点数が取れる程度に勉強を控えて、得意な国語を東大生の中でも得意と言えるレベルまで伸ばすように勉強の時間配分を組みました。戦略が成功したのか、本番の数学は平均を20点下回っていましたが、重点的に鍛え上げた得意科目の国語は平均を20点上回り、トータルで平均点合格しました。

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東大に入学してみて

──壮絶な合格体験でしたね。東京大学に入ってみて、どうでしたか?

 今思えば「自分のことを理解してくれるような都合の良い他人」を求めていた自分のわがままなんですが、入学当初は、「東大に来れば多様な価値観に対する理解がある人たちがたくさんいる」と思い込んでいました。しかし実際に大学生活が始まってみると、今までの学校生活と同じものが繰り返されるだけだった。自分が苦手で先送りしていた集団生活に直面した、もう逃げられなくなったというのが実態でした。今までの人生で免責されていた、社会の成員としての振舞を急にやらないといけなくなった。

 おまけに個人プレーが増えたというか、自分から何かアクションを起こさなければ大学ってなにも起きないじゃないですか。サークルみたいな繋がりも自分で作らないといけないし、先生との距離も遠いので、自己責任でやりくりしないといけない範囲が急激に増えた。入学当初は「友達を作ろう」と思い色々と頑張ったんですが、やっぱり素の部分で人づきあいが苦手なのですぐに疲れ果ててしまって、大学が始まって1週間もした時にはもう周囲と関わらないようにしていましたね。

 大学生活が変わったきっかけとなったのは、5月初めくらいにサークルに入ったことです。流石にどこか入らなきゃな、と思って適当に入ったサークルの居心地が思いのほかよくて、それでなんとか生き長らえることができました。

 そこの居心地がよかったのは、私と同じで色々不器用でうまくいっていない人が集まっていたからだと思います。皆集団の中で弾かれた同士で集まっているから、自分の問題行動とかもあんまり気にならない。皆問題があって迷惑をかけあうのが当然だから(笑) かといってサークルの仕事はちゃんとある訳で、そこは責任を持ってこなさないといけないし、今まで集団行動を取って無かった分遅れはかなりありましたが、周りも色々と苦手な人が多いからできなくても優しかったですね。

 次第にできることも増えてきて、先輩になったらまた自分みたいな問題のある後輩の世話をするみたいな管理職的な役回りになって、そしたら頼りに思ってた先輩が管理職の辛さを知らないできれいごとばっかり言ってくる嫌な上司に見えてきたりとか(笑) 今までの人生で免責されてきた人づきあいを一通り勉強させてもらった、という感じです。

 次第に「こういう問題を抱えている人が集まって色々やってみるサークルとかってないよな」と思うようになって、1年生の冬に大学院で特別支援を専攻している友人と共に「Disability_Studies_Tokyo」というサークルを立ち上げました。今は30人近く集まっていて、ここでは中々話せないような病・障害について相談したり、適切な相談先につないだりと、相互扶助団体として細々とやっています。最近ではゴミ屋敷になってしまった友人の家をみんなで掃除したりしましたが、これも中々大変でした。

田中さんらが立ち上げたDisability_Studies_Tokyo

──ゴミ屋敷!? 大変だった、と言いますと?

 何か心に問題を抱えた人とのコミュニケーションって、当たり前だけどすごく難しいんですよ。今回のゴミ屋敷の件なんかだと部屋中ゴキブリの糞まみれで、カビとダニにまみれて生活しているような方の家を訪問させて頂いたんだけど、本人は「私はそこまで困ってない」とか言うんですよ。いやいやいや(笑)「困ってない人並みの生活」というのが分からないから、どんなに不衛生な環境に生活していても受けいれてしまう。

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「これが普通だ!」というのを押し付けるのはよくないし、最近は多様なライフスタイルが受容されているとはいっても、流石に限度があるだろうと思ってしまう。だからさっそく部屋のゴミを捨てようと思って床に散らばったシミだらけの裏紙をゴミ袋に入れようとしたら、本人曰く「ゴミじゃない」らしくて一枚一枚チェックしだした。

 そんな紙が数千枚は部屋中に散らばってるし、一枚一枚チェックしてたら終わらないからある程度の同意は得た上で私が捨てていくんだけど、やっぱり本人からすると「ゴミ」じゃないから、私が帰った後にゴミ袋から取り出して元に戻してたりするんですよね。ひとまずゴミをまとめて捨てるように言っておくんだけど、「忙しくて時間がとれないから捨てられない」とかあの手この手で捨てるのを拒否してくるからそうするとどうしても強制的なやり方になってしまうけどそれでいいのか、とか色々と難しいです。

 一般的な常識からしたらシミがついたもう使わないようなチラシとか紙切れって「ゴミ」じゃないですか。でもそれが「ゴミ」じゃない人たちっていうのがいて、その人たちに「何が捨てるべきで何がそうじゃないか」の理屈をゼロから組み立ててお互いの妥協できる基準を見出していく作業って本当に難しいんですよ。僕らが自然と「ゴミ」だと思って捨ててるものって、なんで「ゴミ」だって言えるんだろう? 誰でも納得できるように定義づけるのって、本当に難しい。その方には「半年間使っていないもの」は今後使うかもしれなくても捨てるんだよ、と言ったら納得して貰えました。

──想像を絶しますね…。嫌になってきたりしないんですか?

 ええ、なります(笑) 生活とか心が困窮してたり荒れてる人を何人も見てきて思うんですが、皆助けたくなるようないい人じゃなくて、正直関わっていて嫌になるような、平たく言うと被害者面してくる人が多いんです。そういう人と定期的にコミュニケーションを取っていると、たまにすごくしんどくなりますね。でもそもそもコミュニケーションなんで白黒はっきりどっちが悪いとは言えませんし、好きでやってる以上我慢が肝要なのかな、と思います。

 

──その活動を通じて得た、一番の学びはなんでしょうか?

 こういう活動を通して、自分の過去にある程度踏ん切りがついた部分はありますね。現在も大人しい人間かと言われるとそうではありませんが、昔はかなり気性が荒かった(笑) ちょっと前までは自分の親とか学校の先生を振り返って「なんであんなこと言ってきたんだ!」と不満に思うことがあったんですが、今振り返ってみるとああいう対応になるのも無理はないな、と思います。誰しも療育やカウンセリングの知識がある訳じゃないし、あったところで日常的にカウンセラーみたいに振舞うように相手に要求するのも違うでしょう。

 最近は「毒親」みたいな言葉で「よくない親が子供に酷いことをしている」みたいな構図が流行していますが、いざ子供を作ってみたら、発達障害のような育てるにあたって特別な知識が必要な特性を持った子供がポンっと生まれてきて、四六時中その子の教育にかかりっきりになるってなると、誰でも気が狂ってくるし、冷静に対応するなんて無理だと思うんですよ。

 精神の不健全さや認知の歪みっていうのは伝染していくし、攻撃的な言動っていうのを浴び続けていると心が病んでいく。親も教師も人間ですから、間違った対応を取ることもある。元々冷静で優しい人でもちょっとは持っている「毒親」的な部分が、子供の特性に触発されて増長して立派な「毒親」になってしまう、ってこともあると思うんです。

 無論、これは子供が悪いという訳ではもちろんありませんし、信じられないような「毒親」が存在していてその人の下で苦しんだ経験を持つ人を否定する意図はありません。ただそういった極端な「毒親」を除けば、親も子供も前提知識や第三者の支援がないととても対処できないような状況に突然放り込まれて、相互作用的に互いに不健全になっていくという例が多数を占めるんじゃないか、と思っています。となると、「誰が悪いのか」という犯人捜しをして加害者-被害者の絵を描いて考えるよりは、二者間に存在する不健全なコミュニケーションが有機的に問題を形成していくというモデルで考えた方が問題解決に繋がるんじゃないか、というのが私の考えです。

 そのコミュニケーションを健全なものに変えていくには第三者の介入だったりが必要な訳ですが、家族みたいに長期かつ深い文脈を持った関係性の問題を他人が解きほぐしていくというのは凄く難しい。私もきれいごとを述べていますが、実際の事例に直面したら、もっと場当たり的になって、社会通念上問題があるようなやりとりや血みどろのコミュニケーションを通じて無理矢理勝ち取る他ないんじゃないか、と思います。

──今日はありがとうございました。今後挑戦したいことはありますか?

 将来的には研究者を目指しているので、専攻にしようと考えている哲学の方面から問題を抱えている人達の助けになるような研究ができたらな、と漠然と考えていますが、まだ具体的な計画はないです。

 また話は全然変わってしまいますが、今までは紙媒体の記事の発行をメインとしてやっていたので、今後はWEBマガジンを主体として活動していきたいと考えています。

──田中さんのこれからの活躍が楽しみです。

 

 

 

 

 義務教育をたった1年しか経験せずに東大に合格した人物は、人智の及ばない天才などではなく、泥臭い反骨精神に溢れた努力家だった。また田中さんはコミュニケーションの在り方について独自の考え方を持っていたが、浅薄な人間関係の在り方に心地よさを感じることのある筆者としては聞いていてだんだん耳が痛くなってきた。大変学びのあるインタビューで、これを実現してくださった田中さん、UmeeT編集部の皆には心から感謝したいと思う。

 

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