「世界三大美人」と言えば、クレオパトラ、楊貴妃、そして小野小町。
特に小野小町は、平安美人の代表として和歌や文学にもよく取り上げられています。
でもよく考えてみてください。
世界には有名な美人が他にもたくさんいるのに、どうしてこの三人がわざわざ選ばれているのでしょうか?そもそも彼女たちは本当に美人だったのか?
今回の記事では、東京大学大学院総合文化研究科の永井久美子准教授にお会いして、
「世界三大美人」はいつ誰が言い始めたのか?
どうして「世界三大美人」にクレオパトラ・楊貴妃・小野小町が選ばれたのか?
なぜ、平安美人と現代の美人はあんなに違うのか?
などについて、お話を伺ってきました。
永井先生:まずお伺いしたいのですが、世界三大美人の話ってどこで知ったか覚えていますか?
筆者:小学校の時に先生の雑談で聞いた気がします…?
永井先生:そうですよね。友達や先生との会話だとか、テレビで知るということが多いと思います。私も友達との会話で小野小町が世界でも美人とされているというような話を聞いて、「わーすごいなあ!」と思った記憶があります。
私はもともと、『源氏物語』などの古典の絵巻物を中心に研究しているのですが、
絵巻物や平安時代の美意識というのに興味を持ったきっかけというのが、中学時代に友達に「平安時代だったら美人だったのにね」と言われたことなんです(笑)
筆者:えっ…
永井先生:外見のことを気にしない人なんていないじゃないですか。友人も悪口のつもりで言った訳ではないと思うのですが、うわーっと落ち込んだんです。
ただ、同時に「平安時代の美人ってどういうものなんだろう?」という疑問も浮かびました。
そこで、「源氏物語絵巻」を本で見てみたんです。そうしたら、すごく綺麗だなと思って。顔が美人だとかどうこうではなく、服も綺麗ですし、とにかく絵としてずっと見ていたいくらい綺麗だなあ、と思いました。
それがきっかけで絵巻物を研究し始めたのですが、よく考えると「平安時代だったら美人」と言うということは、現代の美人観と平安時代の美人観が異なるという前提があるわけですよね。
そこで、平安時代の美人として広く知られている小野小町について調べてみたいと思ったのです。
永井先生:ただ、小野小町自体の研究はもうすでにたくさんあるんですね。その中で自分は何を新しくできるのか考えた時に、
「世界三大美人言説ってよく言われるけれども、いつ頃から誰が言い始めたのかわかっていないのではないか?」
ということに思い当たりました。
そこから調査を進め、昨年、東京大学ヒューマニティーズセンターのオープンセミナー「近代「美人」言説における小野小町」で研究内容を発表しました。
筆者:日本で「世界三大美人」という時は小野小町・クレオパトラ・楊貴妃が取り上げられることが多いようですが、その言説はいつ頃からどう形成されたのでしょうか。
永井先生:メディアに登場するようになったのは、明治中期頃からですね。
明治、大正に刊行された新聞や雑誌には女性論が多く掲載されたのですが、そこで小町が三大美人の1人として登場しました。
世界三大美人のほかの2人のうち、楊貴妃は平安時代から漢詩を通じて美女ということが知られていますよね。
もう1人であるクレオパトラは、大正3年に浅草で映画「アントニーとクレオパトラ」が上映されたり、有名な女優・松井須磨子が帝国劇場でクレオパトラの役を演じたりということがあり、美しい女性として名前が広く知られるようになったんです。話題性や当時の流行にも影響されて、クレオパトラが三大美人の1人として選ばれたのではないかと考えられます。
筆者:へえ〜!当時の流行が現代まで残っているというのが面白いですね。
永井先生:そうですね。
そういった二人とともに、なぜ小野小町が三大美人の一人に選ばれたかというと、和歌の名手だったことが大きいと思われます。つまり、近代のナショナリズムの影響を受けて、日本文化を体現する存在として、クレオパトラ・楊貴妃に並べられたと考えられるんですね。
筆者:なるほど!西欧列強の侵略を防ごうと必死に西洋化を目指していた反動として、文化面では日本の伝統を重視して立ち帰ろうとする動きがあったというのは聞いたことがあります。
永井先生:そうですね。また、クレオパトラをオリエントの美女とするのであれば、「大正期のアジアのプレゼンスを強める」という点でもナショナリズムにつながっていると言えるかもしれません。
筆者:確かによく考えれてみれば、世界三大美人の中に西欧の美女は含まれてない…
え〜すごい。高校や大学で習った近代のナショナリズムやアジア主義の名残って、意外と近くにあるんですね。
筆者:ただ、「世界三大美人」といっても、小野小町が美人であった証拠は実はない、という話を聞いたことがあるのですが。
永井先生:そうですね。小野小町の肖像画は、彼女が生きた時代のものは残っていませんし、彼女の顔について書かれた文献というのもあまり存在していません。そもそも平安時代は、貴族の女性は基本的にみだりに顔を見せない文化ですし、女性の顔の描写というのはあまり出てきません。
ではなぜ「小野小町=美人」とされているのか。よく言われるのは、彼女の歌風が華やかだったことから、美人だったのではないかという推測がなされた、という説です。
筆者:こんな素敵な歌を詠むんだからメッチャ美人なんだろうな〜!っていうことですか。
永井先生:『古今和歌集』の序文においても、小町の歌風は、衣を通しても伝わる美しさをもった衣通姫の流れを汲む、と表現されています。
また、ある美しい女性が没落していく様子を描いた『玉造小町子盛衰書』という漢詩文がありますが、この漢詩文の主人公の名前が小町というのです。小野小町とは別人なのですが、2人が混同されて伝説が伝説を呼んだのではないかと言われています。
筆者:確かに小町って来たら必然的に「あの小町」だと思いそう…。
永井先生:現代では秋田新幹線に小町のロゴが使われていたりと、「小町=秋田」というイメージがありますよね。それは、『古今和歌集目録』に小野小町は「出羽郡司女」とあることが発端であったと考えられています。
※出羽…現在の秋田県から山形県にあたる地域。
今でこそ秋田県には新幹線も通りますし、地方創生も何かと話題に上ることが多いかと思いますが、平安時代は都中心主義がかなり強い時代でした。それが江戸期になると、各藩の歴史を編纂しようという動きが強まってきます。その流れで、秋田の郷土史家たちが小野小町の調査を始めて、本を書き始めました。
筆者:え、江戸時代からすでに小野小町についての研究があったんですか。
永井先生:そうなんです。また、近代に入ると、明治・大正時代の著名な言論家・黒岩涙香が、雑誌に小野小町論を寄せて、小野小町は理想の女性であると讃えています。
明治・大正期の良妻賢母論は、「忠義の臣下の者は1人の主人にしか仕えないように、女性も1人の男性に仕えるべきだ」というものでした。しかし黒岩涙香は、でも実は誰にも仕えないのが一番なんじゃないかと言ったんですね。
筆者:ん?!
永井先生:今から考えるとそうくるか?!という感じですよね(笑)
小野小町の伝説の一つに「100日通い続けたら結婚してあげると言ったが、結局99日で終わってしまったので、誰とも結婚しなかった」というものがあります。それを黒岩涙香は、「小野小町は貞操を守った」として評価したのです。
筆者:…意外な解釈でびっくりしました。
永井先生:そうですね。小野小町の受容の仕方は、時代によって変化してきました。それぞれの時代の理想が反映されたといってよいでしょう。
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永井先生:先ほど申し上げた通り私は絵巻物の研究をしているのですが、元々の興味としては「古典がビジュアル化された時に何が起きるのか」ということがあります。
例えば『源氏物語』では、紫の上の美しさは描かれているのですが、「桜のように美しい」というような表現ばかりで、目が大きいだとか表情がどう、という顔の造形についてはあまり書かれていないのです。紫の上の他にも、『源氏物語』には美しい女性がたくさん出てきますが、それぞれの顔が具体的にどう違うのかということは、意外と書かれていない。
永井先生:ただ、絵や映画でビジュアル化するとなるとその美しさを具体化する必要がありますよね。そしてその具体化の過程に、時々の時代性が反映されます。
例えば『源氏物語』を映画化した作品では、その時々に美人とされる女優さんが紫の上を演じることが多いですよね。
古典のビジュアル化には、時代ごとの美人観が反映されるんです。
筆者:平安時代と現代の美人観の違いとは、例えばどういったものがあるんでしょうか。
永井先生:それは、美人とされていなかった人たちを見てみるとわかりやすいかもしれません。
「病草紙」という絵巻物があります。これは様々な病気を持っている人を集めて描いた絵巻物なんですが…
筆者:なかなか強烈ですね…。
永井先生:現代ですと少し変わった風貌の人がいても、指差したりジロジロ見たりしてはいけないと言われますが、平安時代は見ないどころか、集めて絵巻にしています。
この絵巻物には外見に特徴のある人の絵も何枚か納められています。例えば顔にアザがある女の人を描いて、詞書に「見えないところにアザがあるのはいいけれども、顔にアザがあると大変問題がある」と書いてあるだとか。あとは肥満であったり、アルビノや小人症の人々も、この絵巻では「笑われるもの」として描かれています。
編集部:当時は現代のような医学という概念がなかったかと思うのですが、病気であったり特徴的な風貌をしていたりというのは、どのように解釈されていたんですか?
永井先生:上流貴族の間では仏教が広く信じられていましたので、あくまでも当時は、ですが、「病は前世の報い」とされました。ですから外見が変わっている人たち、また病気をした人たちを見る眼差しは、かつては「前世で何か悪いことをしたので、今世でこの目にあっているのだ」という自己責任論、そして「本人が悪いので差別してもよい」という価値観に裏付けられたものでした。
筆者:生き辛い。
永井先生:つまり、顔に特徴がありすぎるということは出る杭になってしまうので、問題なんですね。
先ほど言った通り、『源氏物語』では女性を美しいと書いても造形についての顔の描写はそれほどありませんし、「源氏物語絵巻」を見てもそれらの女性の描き分けというのはほとんどなされていません。
しかし、「顔に特徴があることは問題である」ということを裏返すと、「強い個性のない顔が美人である」となります。
そう考えると、そもそも描き分ける必要が無かったともいえるのです。
筆者:なるほど!
永井先生:平安時代は現代以上に美の規範がはっきりしていました。美人を描く際にはその規範に従っていたので、みんな同じような顔になるのです。反対に、『源氏物語』に登場する赤鼻の末摘花のように、美の規範から外れた特徴がある顔は、醜いとはっきり書かれてしまいます。
現代では個性が尊重されますが、平安時代は没個性であることが美人の前提条件でした。
筆者:平安時代で美人とされる顔と現代で美人とされる顔は大きく異なっていますが、なぜ変化したのでしょうか。
永井先生:近代に入ると西洋の影響から、彫りの深い女性というものへの関心が高まったようです。
ただ注意すべきなのは、現代人の多くが「平安美人」と思っているのは、あくまでも没個性的に描かれた、絵の中の人物のイメージであるという点です。
現代でも、漫画やアニメで目の大きさが誇張されることがあるように、その時代の美的感覚を強調した描き方をしていたのであって、必ずしもその通りの顔をしていたわけではないと思います。
筆者:なるほど。現代でも、美人とされる人たちがみんなアニメ顔をしているわけではないですよね。
永井先生:『源氏物語』で、空蝉という女性が腫れぼったい目をしていることが否定的に書かれている例を考えると、案外、ぱっちりした目が美しいとされていたようにも思われます。
平安時代に白粉と紅のコントラストが強い化粧が定着していたのも、今よりも照明が少なかった中での見栄えを考慮したものであって、現代のCAの女性が、暗い機内でも血色よく見えるメイクを工夫されているのと共通点があるように思われます。
そう考えると、平安時代と現代の美人の価値観がかけ離れていたとも、一概には言えないのではないでしょうか。
永井先生:近代以後の「美人」たちがどのような価値観の社会を生きてきたのかということについては、国際日本文化研究センターの井上章一先生が、『美人論』という本で明治から昭和にかけての数々のエピソードを紹介しています。
大正期には、新聞社の企画で、良家の娘さんの写真コンテストが行われました。平安時代には親族以外には見せなかった良家の女性たちの顔が、メディアを通して広まるようになったのです。
筆者:そうか、確かに顔に注目しないとミスコンは成立しないですね。
永井先生:そうですね。ただ、大正期にはまだ、公の場で女性が体の線を出すことはあまりなかったようです。大正11年にサントリーが、広告で肩を出した女性の写真を使用したところ衝撃的とされました。
ミスコンでもいわゆる水着審査など、女性が体の線を出して審査されるようになったのは戦後からですね。女性は肌を見せるべきでないという規範がゆるまったこともありますし、またこの頃から美人の条件としてプロポーションも入ってくるようになった、ということも言えるでしょう。
永井先生:絵の中の平安時代の女性はほぼみんな同じ顔という点で、面白い話がありますよ。
紫式部を描く際には、式部が文机に向かい『源氏物語』を執筆しているという構図の絵が多いのですが、これって描かれている人物が清少納言だとしても、気づかないかもしれないと思いませんか?
筆者:ああ!清少納言も文章を書きますし、顔の描写に大きな違いがないとすればわからないかも。
永井先生:実際、『枕草子』の「香炉峰の雪」のシーンを描いた清少納言の絵は、紫式部が描かれた他の絵の一部分がトレースされたものがあることがわかっています。
顔の違いを必ずしも強調しない絵には互換性があって、個性を描く事よりも、情景を描く事の方が重要視されていたわけです。
筆者:「雰囲気」重視となると、史実とはかけ離れた絵も多そうですね。
永井先生:そうですね。例えば紫式部の絵だと「月」「湖」「筆」「紙」という要素が本人と共に入れられることが多いのですが、これは『源氏物語』の注釈書『河海抄』などに挙げられている「紫式部は琵琶湖に映る満月を見て、海辺をさすらう貴公子の話を描こうと思い『源氏物語』を書いた」というエピソードが元になっています。
ただ、このエピソードは平安時代の記録には全く出てきません。中世になってから広まった伝説で、本当かどうかは、同時代の史料では確認ができない。
実証性に欠けるということで、近代以降、教科書などで紫式部の絵を使用する際には、月や湖などの背景を削って載せる、といったことが行われています。
ですが、実証的でないからといって否定してしまってもいいんでしょうか?
月と湖と紫式部という組み合わせは、中世以降長らく描かれてきた伝統で、いくつも同じような作品が作られ、広まりました。なぜ伝説が信じられ、浸透していたのかを考えるべきではないでしょうか。
筆者:実証的でないとダメ、オリジナルでないとダメ、というのは現代の感覚ということですか。
永井先生:そうですね。現代はコピー&ペーストが禁止されていますが、昔の絵師たちはむしろ模写することから絵を学んでいたのです。
古い作品に敬意を表し、その様式を徹底して学ぶことで身に付く文章や絵の技法もあるでしょうし、模写や同じ題目に挑戦してみることで、これまでの人々と自分との違いが見えてくることもあるのではないでしょうか。
ただしこれは、決して現代における剽窃を容認するということではありません。ルールを守ったうえでの学習の話です。
現代はオリジナリティ重視で、「自分が好きなことをやろう」「やりたいことをやろう」と言われることが多く、それが間違っているというわけではありませんが、
好きなこと、やりたいことは果たして何だろうかと悩んだときには、今あるものを読んでみたり、教科書にあるものを読み直してみることで、見つかるものもあるんじゃないかなと考えます。
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筆者:先生もそうやって、今あるものを読み直した結果、研究者になる道が見えてきたという感じでしょうか。
永井先生:そうですね。私はもともと古典文学に興味はありましたが、国語は正直それほど得意ではなく、国語はわからないからこそ気になり続ける存在でした。主人公の気持ちや著者の気持ちと言われても、本当にそう考えているどうかは、実際には判断は難しいです。
でも、そのわからなさは、勉強し続けたらわかるんだろうか?と思ったのです。
筆者:純粋に古典や平安時代が好きで突き動かされて、というわけではいらっしゃらないんですね。
永井先生:もちろん、根底には好きという気持ちがありますよ。わからなくて知りたくて好き、という感じでしょうか。
ただ、好きというだけだと研究を続けるには辛いかもしれません。好きだから好きとなりがちで、愛は語れても分析ができなくなる。他人に、研究の意義やその研究の何が面白いのかもうまく伝えられませんよね。分析をするには、一定の距離を保つ必要があります。他の職業でも一緒かもしれません。
研究においては、対象への愛だけではなく、突き止めたい謎があることが大事だと思います。その謎が気になり続けるというのも、一つの愛の形なのかもしれませんが。