みなさん、センター試験に代わって2020年度から導入される「新共通テスト」で、英語の入試が大きく変わるのはご存知ですか?
<今までの大学入学センター試験>
マークシート方式の筆記試験とリスニング試験
主に「読む」「聴く」といった能力を評価する。
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<大学入学共通テスト>
センター試験で測ってきた「読む」「聴く」に加え、「話す」「書く」を含む「4技能」を評価できる民間の資格・検定試験を国が認定。
3年生の4月〜12月までの試験結果が大学入試の成績として使われれる。(2023年度までは国が行う共通テストも実施され、認定試験と併用される)
実はこの新しい制度、問題点が山積みとの噂が各方面から続々と聞こえているのですが、その真相は一体どうなっているのでしょう。
今回は民間試験はなぜ導入されることになったのか?その問題点とは何か?東大教授 阿部公彦先生に伺ってきました。
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―英語の民間試験が導入されることで、日本人の英語を「話す」能力が高まるのではないか、と期待されているようですが、まず民間試験が導入されることになった経緯を教えて頂けますか?
元々日本人が英会話が苦手だというのは、遡ること明治時代から言われてきていることなのですが、その頃から、「英会話を今なんとかしなければいけない。なんとかすればなんとかなる」というムードが時々高まってはみんな飽きてきて、そしてまた高まって…という繰り返しをしてきているんです。
元々そういった流れがあるので、今回の改革も突然始まったというわけではないのですが、今回一味違ったのは、「4技能」という言い方をしたところです。
―4技能という言葉はどこから出てきたんでしょうか?
そもそも4技能という言葉がいつから使われはじめたかというと、よく分からないんですよ。
少なくとも、英語の技能を読む・書く・話す・聞くという4つに分けるやり方は100年前、あるいはもっと前からあったはずです。
だから「4技能」という言い方自体は決して新しくはありません。また、単なる区分なので良いも悪いもない。
たしかに技能間の「連携」を考えた地道な研究は増えていて、これはとてもおもしろい領域になりつつあります。ですが今回の政策はただ「4技能!」と連呼するばかりで、むしろ単純な区分ばかりが強調されています。
いくら推進派の話を聞いても、今回の「4技能」なる看板の新しさはよくわかりません。結局、大した意味がないということだと思います。
しかし、それがさも新しい言葉であるかのように大々的に使われて、未だに一部の業者さんやマスコミでは4技能ということを謳い文句にせっせと宣伝していますね。
―4技能がそれほど新しい言葉でないなら、突然入試を4技能を軸としたものに変えよう、ということになったのは何故なのでしょう。
今回政策の最大の目玉は、「スピーキングテストの入試への導入」です。
そういう意味では、この20~30年ずっと続いてきたコミュニケーション重視の英語教育の延長上にある流れなのですが、現状で「会話の練習ばかりやっても大学の勉強で役に立たない」とか「オーラル英語偏重のせいで、最近の高校生は単語や構文といった英語の基礎力が身についていない」といった、この政策への批判がかなり出ています。
そこで、単なる「オーラル英語重視」の代わりに、「今までは2技能。これからは4技能」というキャッチフレーズをもってきたわけです。「2が4になって純増なんだからいいだろう」という理屈です。
しかし、高校生の勉強時間は限られているので、急にいろんなことができるようになるわけがない。「4技能」どころか、スピーキングテストなど導入したら、表層的な対策ばかりが横行して、基礎力は今よりもっと落ちてしまうでしょう。
ただ、国民全般の中に英語コンプレックスがあって、勉強せずに手軽にできたらいい程度に思っている。
だから、「英会話、もっとできるようになりたいよね」なんてささやかれると、つい「いいね!」と反応してしまう。そういうノリです。
本当は語学の勉強は地道で面倒くさい作業が必要なのに、耳に聞こえのいいキャッチフレーズでそれを隠すのは本当に良くないと思います。
「ちょっと特効薬というか、効き目の良い栄養ドリンクみたいなのがあったらいいな~」みたいなそういうノリなんですね。
今回、その栄養ドリンクとして差し出されたのが、「入試を変えよう!」っていう話だったというわけです。
ー英語コンプレックス…。身に覚えがあります。
それは国民全般の話なんですが、もちろん英語の民間試験の業者の人たちもぼーっとしてたわけではなく、どうやらせっせと政治家に働きかけて今回の民間試験の導入にこぎつかせたようです。
政治家への陳情はどんな業界の人もやるわけですから、別に違法なことではありませんが。
元々受検者が減ってきていて困っている業者の側からしてみると、入試改革があれば自分たちの事業が上手くいくんじゃないかと言う意識もあって、民間試験を入試に導入するための働きかけを常に行ってきたし、今回はその流れにうまく乗ったということです。
また、業者から働きかけられた政治家の方が、たまたま「民活」のようなことを言いたがる人、あるいは旗印にしていた人で、大学入試の市場化・利権化を自ら煽ったようなところがある。そういった人が力のあるポジションにいたということもあって、かなり強引に話が進んでしまったというのが実情です。
そしてその入試改革の大義名分として、「4技能」という言葉が持ち出されたのです。
民活…民間活力の略。大規模プロジェクトを実施する際,政府・自治体に代わって民間部門の資本や経営によってそれを行なうこと。
―ブリタニカ国際大百科事典
―英会話力を向上させることが目的ならば、何もまるごと民間の業者に委託せずとも、スピーキング試験だけ委託するみたいなことは出来るのではないかと思うのですが…。
そうですよね。
面白いことに、実は国も最初は業者にスピーキングだけを委託しようとしたんです。
ところが業者側が「それじゃ採算が取れないからいやだ!」ということを言って、抱き合わせ販売で全部の試験をやることになったと。
第一にそこに歪みがあるじゃないですか。
推進派はこの「歪み」を正当化するために「4技能試験」と言っているわけですが、実質的にはスピーキングが入るだけなんだから、従来のセンター試験に加えたオプションとして、スピーキングだけ民間試験を活用したらいいと思います。
―民間試験導入に対して、先生の率直な感想を教えて頂けますか?
いま世間でよく話題になっているのは「格差」ですよね。地方には受験会場がないとか、回数を多く受けられない人が出てきてしまうとか。
これももちろん大事だと思うのですが、私が一番問題だと思っているのは、民間試験を導入したとしても、英語を話せるようにはならないということです。
先日、私もある民間のスピーキング試験のサンプルを受けさせてもらったんです。
現状で可能なスピーキングの問題としてはそこそこのものかなとは思ったんですが、もしこれが導入されたら、ほとんどの受験生がこの試験形式に合わせてしか勉強しなくなるんだろうなという気がはっきりするくらい、すごく形式への慣れがモノを言うテストなんですね。
例えばテストには文章をぱっと読んで、「一分間の間にできるだけたくさん話せ」みたいな問題が出たりする。そうすると受験生はみんなそれに向けての練習をしますよね。
でも機械に向かってありったけのことを話すのと、現実に人とやり取りすることは全く違います。そんなテストの対策をしているだけで英語が話せるようになるわけもありません。
例えば、日本語でのコミュニケーションでも、立て板に水のごとく一方的にワーっと話すことって本来のコミュニケーションのあり方とは違いますよね?
それは英語でも同じことで、相手がいることを意識しないスピーキングをいくら練習したところで、本物の人間を相手にした英会話などできるようになるはずがありません。
だから大して意味のないスピーキング試験の対策に貴重な時間を使うよりは、もうちょっとお金も時間もかけずに、自分の努力で身につくようなことを早い段階でしておいて、大学なんかで自分でスピーキングの練習をし始めればいいと思うんです。
もちろん、英語を聞いたり、その音を口にしたりする練習は、初期の段階から絶対的に必要ですが、そこに無理矢理テストを持ってきても、習得にはつながらない。
なんだか国民全体が英会話したくてしょうがなくて、だから大学入試にスピーキングを導入するみたいな話になっているんですが、本当にそうなのかなあと疑問に思いますね。
ただもちろん、高校生の10人に2〜3人くらいは英会話をきちんとやりたいという人もいるかもしれません。
そういう人は自らやればいいわけです。スピーキングほど、モチベーションなしでは上達しない領域はありません。是非、がんばってほしい。
ただ、英語の諸技能を学習するためには順番も大事だし、優先順次もある。向き不向きや、必要性もある。
それを「4技能均等」という無根拠で無意味なキャッチフレーズで、全員に抱き合わせ販売のテストを強要するっていうのは何なんだろうっていうのが率直な思いですね。
―うーん、なんだか本当にこのままの状態で新しい制度が進んでいくのはどうなんだろうと思い始めました…。民間試験を導入することはもうほぼ決定しているんでしょうか?
一応表向きはそうですね。でも今になってボロボロと問題点が指摘されてきています。
―最近Twitterなどでも問題を指摘する人が多く現れているなという印象を受けますが、先生もそれを感じておられますか?
明らかに以前より新しい英語入試に関する批判的なコメントが増えていますね。
恐らく実際に試験をやったらもっと不満や問題点が出てくると思います。
―民間試験導入を中止することはもうできないのでしょうか?
中止するのはそんなに難しいことじゃないと思っています。
とりあえずは民間試験をなしにするか、あるいは希望者・希望大学だけに民間試験を導入して、基本は共通テストだけを行うことにする。
本当に民間試験に完全に移行することになっているのは2024年なので、やっぱり民間試験はやらないということにするのは今からでも十分可能だと思います。
私はスピーキングなんてテストする必要なんてないと思いますが、現実的な案としては、どうしてもやるというなら「選択制」を推しますね。
英語で話すのが大好きとか、中高ESSに入っていますとか、そういう人はスピーキングで試験を受ければいい。逆に英会話を必要としない人はリーデイングで試験を受ければいい。
どうしてそういう形にしないのだろうと思います。
まあ恐らくは選択制にするとみんなスピーキングを受けないからだと思いますが…。
そもそも日本語話者が英語で話すのは、ほかの言語の話者と比べて難しいんです。よく言われているのですが、日本語の口頭でのやりとりは英語のシステムと違って、まだあまりフォーマルな形が確立していません。
―フォーマルなやりとり???
例えば、授業中に発言する人を思い出してみると、みんな「えーっと…」とか言って、それを文字に書き起こしてみるとかなり無駄が多かったり、意味わかんなかったりするでしょう。
でも面白いことに、書き下すと意味が分からないのに、口頭で話すぶんには全然問題なく分かってしまう。
おそらく口頭ではぐちゃぐちゃ言ったほうが分かるんですね、日本語って。ぐちゃぐちゃ言うことで、一種の「共感のスイッチ」が入るようになっているのだとおもいます。つまり、ぐちゃぐちゃ言ったほうが、わかった気がする。
それとは対照的に、英語はフォーマルに話すことのほうが習慣になっていて、例えば国会とか授業での発言とかを書き起こしてみると、違和感のないきちんとした文章になっている。
もちろん英語でもぐちゃぐちゃ話すこともありますが、フォーマルな話し言葉に切り替えるスイッチがちゃんとあって、ある程度の知識や教養がある人はそういうことを身につけているわけです。
でも日本語の場合はそういう切り替えがあまり行われていないのだと思いますね。
日本語ですごく論理的に立板に水のような調子で話すと、「ちょっとあの人変じゃない?」とか言われることもままありますから…(笑)
もう一つは非常に単純な話ですが、日本語の音というのは英語に比べて音の数が少ないんです。
つまり日本人が発音したことがないような微妙な違いを、英語話者は区別して発音しているわけですね。
例えばclothとclothsや、clotheとclothesを聞き分けたり、言い分けたりするのは我々日本人には難しい。
そもそも普段弁別している音の数が少ないので、英語的な音の弁別に馴染むのに苦労するのは当然といえば当然です。
サッカーが上手い人が必ずしも野球をうまくできるとは限らないのは、使う筋肉が違うからですよね。
それと一緒で、日本語と英語では舌の使い方や、口の動かし方が違うのです。
そういうこともむしろ積極的に話題にしていって、無理やり苦行のように「英語の授業は英語でやらなければならない!」とか言うのではなく、
「やっぱり日本語と英語は違って面白いな」とか「だから日本人が英語を話すのが大変なんだよね、わっはっは」って言いながら勉強していった方がずっと面白いし、ストレスも減るんじゃないかという気がしますよね。
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実は今回、英語の民間試験が導入されることになった背景には世界的な英語教育の流れのようなものが関係しています。
CEFR(セファール)という、外国語の能力を、言語や国境を越えた同一の基準で測ろうとする指標があるのですが、今これを入学試験で用いる民間試験に当てはめようとしていることが問題になっています。
CEFR(Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment)…外国語の運用能力を、言語の枠や国境を越えて同一の基準で測ることができる国際的な指標。A1~C2の6つの等級があり、C2がもっとも熟練度が高い。
このCEFRという指標は、「その人がどれくらい能力があるのか」と言うのを具体的に示すのが目的です。
この基準が作成されたヨーロッパでは人の行き来が激しく、多くの移民を受け入れています。そこで移民労働者の能力を具体的に明示することで、「この人はレジ打ちならできるな」などと適材適所に配置することができます。
これは労働力を採用する際の目印としては良い指標だと思いますが、試験の基準として使うのには適していません。
というのも、たとえばC2レベルに到達するために必要な具体的な能力を一つ一つ列挙して、覚えて、というのは数が膨大過ぎますし、そもそもそれは本質的な基礎力の養成には結びつかないのです。
CEFRの能力記述法は非常に具体的です。
たとえば、「わたしは自分の夢を簡単な言葉をつかって相手に伝えることができる」というような項目がある。人間の言語活動のあらゆる領域を網羅しようとする試みとしてはすごくおもしろいのですが、受験生の立場になったらどうでしょう。これを突き詰めると、
「C2になるためには、マクドナルドのトイレを詰まらせた時に上手に言い訳しながら笑ってごまかすことができないといけない…。あ、そうだ、ビックカメラのトイレを詰まらせてごまかす方法も覚えなきゃ!」
なんて誤解する人も出てくるかもしれない。まあ、これは冗談ですが(笑)
CEFRに基づいた入試が目前に迫っていますが、こうしたCEFRの根本的な考え方を理解している高校の英語の先生がどれだけおられるでしょう。
だからといって今ある民間試験の点数をそのまま当てはめて、「この試験の何点はC1」という風に決めても、元々の評価システムが全然違いますから、正確性に欠ける。この点数比較のいい加減さについても、今、専門家の間では大きな論議を呼んでいます。
CEFRは自己診断に使うには適していますし、労働者の「スペック検査」にも有効です。たしかに、そうした場合には具体的な記述が助けになるでしょう。
しかし、選抜試験の指標には使えません。民間試験導入のために流用するという考え方がおかしいのです。
もう一つ付け加えておくと、CEFRは、“〇〇ができる”ということでその人の言語能力を測ろうとしていることもあって、比較的「現場型」もしくは「即興型」の、つまり、口頭でのやり取りがフォーカスされがちな英語像をつくりだします。
そしてCEFRで中心的な役割を担う「しゃべること」についての指標では、上のレベルになればなるほど、いかに流暢に(fluently)、努力していないかのように(effortlessly)話すかという点が重視されているのです。
日本語だとその点はそんなに重視されませんが、英語では重視される。
この裏を考えると、絶対にネイティブスピーカーが負けない仕組みになっているんです。
ーどういうことですか?
発音や言葉の選び方、流暢さなどを含め、ネイティブスピーカーのレベルに達するというのは、日本にいて、中学高校くらいから英語の勉強を始めたのでは絶対に無理です。それに、そのようになる意味もありません。
どんなにがんばっても、非ネイティブスピーカーは、非常に理知的にきちんと話せるけれども訛りがある、という英語にならざるを得ません。
そう考えると、一番上のC2レベルに”fluently”という基準が入っているのはちょっとおかしいですよね。英語の能力ではなく、英語圏の文化や価値観をも内面化し、かつ自分では到達できない「聖なる領域」を崇拝することが求められているんですから。
じゃあなんでこんなことになっているかというと、「話す力」がネイティブスピーカーの地位を守るための最後の牙城だからです。読み書きは、非ネイティブスピーカーでも、ネイティブスピーカーに劣らぬレベルに達することができる。
勝負は努力と知性です。しかし、流麗にしゃべれるかどうかは「生まれ」が左右する。まさに「ネイティブ」かどうか、なのです。
みなさんもご存じかと思いますが、アメリカでもイギリスでも、「話す英語」を通し、その人の出自や教養、社会的地位などが聞き分けられていると言われています。
話し言葉中心主義はそうやって「言語的階級性」を維持する装置として機能し、ひいては社会の階層性を補強しているのです。
だから、意図してか意図せずかわかりませんが、CEFRはこうしたシステムを守る役割を果たしています。
こういったシステムを入試に導入してそれに応じた学習を学生に強いれば、英語圏の価値観に無理矢理組み入れられるばかりでなく、はじめからその底辺に位置づけられることを運命づけられることをも意味します。
これは一種の英語帝国主義でしょう。もちろん、「その方がいい!」という人もいるかもしれませんが、少なくとも自分がどういうことをしようとしているか自覚する必要はあると思います。
―国際的な言語能力の指標の背景にも、言語帝国主義的な思想が見え隠れしているなんて興味深いです…!!
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