東大生の多くは春休みを迎えて早一ヶ月ほど。気ままな旅行中のみなさんも多いのでは?
UmeeT編集長の杉山による、東大生の旅行記第一弾後編。(前編はこちら!)
旅行を計画中の皆さんに参考になるかどうか分かりませんが、ある意味反面教師ということで。「失敗ばかりだからこその旅の面白さ」を力説します。
うまくいかないことばかりだけれど、なぜだかやめられないのが旅の魔力。前半では、旅だからこその、ありえないような人との出逢いを語った。
旅はわからないことばかり。しかし、ぜんぜん予定通り行かないからこそ、想像もしなかったような、「ありえなかったはずの体験」が出来るのも旅の魅力だ。
カンボジア、夜のシェムリアップ市街で、なぜか急に日本語で呼び止められた。見るからに怪しい日本人ガイド、職業は旅人だという。アブナい雰囲気。「観光客が絶対に行かないような本当のカンボジアを見せてやる」、と誘われた。
かなり迷ったが好奇心に勝てず、一緒に来ていた友達と相談し、もともと立てていた計画を全部白紙にして連れて行ってもらうことにした。その日は市街地を案内してもらい、前金を払って別れた。
後日、約束の時間、朝早くからホテルの前で待っていたがどれだけ待っても来ない。あぁ、だまされたんだ、信じるんじゃなかったと落ち込みながら、食べなかったはずの朝食をホテルで食べることに。気を取り直して計画を見直そうとした矢先、
「ごめん寝てたーーー!!!」と、漫画みたいに彼が走りこんできた。
さて、予定から1時間半ほど遅れて、現地のタクシーであるトゥクトゥクに乗ること2時間。辺りには何もない、道沿いに時々民家があるだけ。確かに僕たちは「本当のカンボジア」を見た気がした。
観光地から遠く離れた、現地の「普通の人の普通の暮らし」は、僕たちにとって革命的だった。強烈な臭いのする実に雑然した市場では、捌かれてそのままの豚が吊られ、地面の水溜りで売り物だったはずのナマズが跳ねている。
さらに進むと、すっかり草原に囲まれてしまった。着いた、と言われた。そこには何千年前からほとんど変わってなさそうな暮らしをしている住人たちがいた。すみかに招待され、お昼ご飯をご馳走になる。鶏を飼い、農業をし、時々草原で獲物を捕らえたり。そのときはちょうど、大きな蛇を捕まえて捌いていた。まさに自給自足。
周りの草原は歩けども歩けども景色が変わらない。いともたやすく地平線が見えるこの草原を、当てもなく散歩してみた。たどり着いたちょっと背の高い木に登ったとき、そこはまるで世界の中心のように感じられた。他に視点がないのだ。何もないから。世界はこの見わたす範囲だけ。
ここに住む人たちは、ほとんど外側を知らずに生きている。実際、時々街に出稼ぎしているお兄さんでさえ、カンボジアが世界地図のどこにあるのか知らない。この草原のほかには、最低限の外があるだけ。彼らの世界はそこまで。
これもまた、「ありえない」はずの出来事だった。実際怪しいあの案内人はタダモノではなくて、どうやら薬物をやっていたみたいだった。そんなありえない人に付いて行っちゃったからこその、「ありえない」体験だった。
衝撃的だった。そういう生き方もあるんだ。というか、ずっと長い間人間は、そうやって生きてきたんだ。暗くなった道をトゥクトゥクで帰る。電灯も窓から漏れる明かりもない、本当の闇。見上げると、見たことも無い満天の星。
僕にとって、旅の計画はまず崩れる。崩すためにあると言ってもいい。ブリュッセルで寝坊しなかったらアントワープには寄らなかったし、ミラノでチケットを間違えなかったらヴェローナには行かなかった。でもたまたま寄った街ほど魅力的に映ったりするのだ。
そしてその何が起こるかわからないスリルが、僕は好きなのだ。
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そして、たとえ特別な出会いや出来事がなくたって、旅はそれ自体「ありえない」ものとの邂逅だ。違う国に行き、違う文化、考え方に触れる。驚かされることがないわけがない。
ベトナムでは、値切り交渉をしないと何にも買えないという常識に面食らった。市場を歩くとそこら中からしつこく(日本語で!)呼び込みをされる。なんて怖いところだろうと思った。頑張って交渉しないとぼったくられるのが当然なんて、日本では考えられない。
しかしこれが、慣れると物凄く楽しい。元々物価の低いところだから、交渉すればするほどにどんどん安くなる。値切って買えたときの満足感たるや! 自分で値段を決めた。不満足なわけがないのだ。
アメリカではじめて触れたチップ文化も衝撃だった。チップのすごさは、お客さんが勝手に従業員教育をしてくれること。代金に乗ってこないはずのサービスの質が、絶え間なく評価され、自動的に改善される。日本では取引されない部分を市場の中に組み込んだ、さらに徹底された資本主義を感じた。
でもこのチップがなぜか定額で請求されたりもするから、またびっくりしてしまう。
ケチなせいでお金関連の違和感ばかり思い出す。何を隠そう、スイスでは物価が高すぎてスーパーで買ったクッキー以外ほぼ絶食した人間である。
もちろん、違いを感じる部分はそこらじゅうに転がっている。ヨーロッパの多くの都市では街中にパフォーマーがあふれ、行き交う人は喝采し、投げ銭をする。なんて魅力的だろう。日本の街にはこんな寛容さはない。
そして乞食も良く見かける。中国では地下鉄の車両内を物乞いの人が、歌いながら練り歩くのを見かけた。当たり前のように都市に内包され、名も知らぬ誰かに救われて生きる。日本にはない、そのやわらかさ、自由さがとてもうらやましく思えた。
逆に日本のすばらしさをやはり身にしみて知る。アメリカのファストフード店では、ガムをかみながら不機嫌そうに注文を待つ店員が普通だったりする。
海外でよく見かけて驚くのは、有料の公衆トイレ。日本人からするとまさかと言う感じだ。そして有料だから綺麗かと言うとそうではない。逆にみんな、お金を払ってるから汚してもよかろうと雑に使ったりするのだ。
旅をする誰もが認めるのは、日本の街は飛びぬけて綺麗だということだろう。欧米の先進国の首都でさえ、時に下水の臭いに顔をしかめながら歩いたのを思い出す。よそ様に迷惑をかけまいとする日本の美徳は、時に公の場の自由さを制限するけれど、同時に本当に高いモラルの水準に現れている。
こうやって、分かりやすい違和感に出会うのも、旅の魅力だと思う。僕にとって、「ありえない」ような違いは、とても面白い。好奇心が湧く。当たり前だと思っていたことが特別だと気づくし、その違いの理由を想像してみて、さらに考えさせられたりする。
この人たちは自分とは違うんだ、理解できないんだ、とあきらめる必要はない。違うことを、楽しもうと思う。別の考え方を、面白がろうと思う。全部受け入れなくたっていいし、全部理解できなくたっていい。それでも「違い」を無視せずに、触れていたいと思うのなら、それを面白いと思えばいい。
パリのルーブル美術館に行ったとき、ちょうど現代アーティストであるミケランジェロ・ピストレットの特別展が行われていた。その作品のひとつに、ネオンでさまざまな国の言葉をちりばめたものがあった。言葉の意味はすべて同じ。もちろん日本語もあった。
「違いを愛する」、と。
僕はまた旅に出る。思いも寄らないすばらしい出会いと、何が起こるか予測できないスリル、理解できないものを前にした抑えがたい好奇心。それらの「ありえない」ことを、楽しむために。
旅は人生だ、と誰かが言っていた気がする。そんなもんじゃない、と僕は思う。旅は人生の、濃縮還元だ。そしてその濃度は、やりようによっては5倍にも、10倍にもなる。
その濃さを味わってしまったから、僕はずっと旅をやめないだろう。
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後半までお付き合いいただいてありがとうございました!
僕なんかよりヤバい経験をしてる人、ヤバくなくても素敵な旅をしてきた人、きっとたくさん居るはず。
その経験、ぜひぜひお寄せください。書いてみてもいいかも、って方、ぜひ↓の「コメントを残す」から一言お願いします~
この春は海外に行く予定がないのがつらいなぁ。。。