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看護師が挫折して東大の公共政策大学院に入った話

2019.01.13

Introduction

はじめまして。正看護師免許持っているのに、今は公共政策を学んでいる準急です。

「公共政策って何だよ?」とか良く聞かれるし、ユニークで面白い人や超名門海外大学出身の人もいるのに、何故か法科大学院から工学まで色んな授業に出没する謎集団みたいな印象しかないみたいで非常に残念です(笑)

そこで、公共政策についてもっと深く皆さんに知って頂きたいなと思いこの場を借りて連載する事にしました。UmeeTさん有難う ^^

今回はその第一弾として、僕がここに至るまでの経緯を紹介しようと思います。挫折記事です!

皆さんは挫折記事とか読むの好きかな?僕は、結構好きです。

辛い事があった時、それに意味を見出したりポジティブな経験に変える事ができたり・・・何より悩んでるのが自分だけじゃないっていう感じの妙な仲間意識が生まれて、一人公園で寂しく缶ビール飲んでた頃にはよく励まされてました。

ここに至るまで、良くも悪くも自分が夢にも思わなかった事が沢山ありました。

それと、何か新しい事に挑戦するチャンスが回ってきたときに、今までの計画を捨てて路線変更するのって自分が思ったより勇気が必要だったし。

この記事では、僕の現在に至るまでの紆余曲折、失敗と挫折の連続について書きたいと思います。

進路に悩んでる方、「どうせ東大生なんて挫折しないでしょ」なんて思ってる方、就活失敗した方、多くの人に読んで頂ければ嬉しいです!

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優先順位がはっきりしてない人間の末路

実は僕、正看護師の国家試験3回受けてるんです…っていう事はもう皆さんお察しの通り2回落ちてます。

一回目の試験を受けた頃は、インターンとかもやっていて時間に制限があり、試験を突破するのに絶対必要な過去問とか殆どやってなかったんです。まずこの時点で受かる可能性がゼロですね。

看護のカリキュラム以外にも準専攻みたいな感じで履修が多かった生理学とか、以前から興味があった心理学も勉強していたのですが、全体的に成績も悪くなかったんで試験をなめてました。

努力は多分していたけど、優先事項が完全に素っ頓狂で、いわゆる真面目系カスですね(泣)。ああ、この頃の自分を思うと…

一回目に落ちた時が一番精神的ダメージが強くて、悔しさのあまり何故か走り込みをしようと思って氷点下の夜を爆走していたらハーフマラソンどころか28キロ近く走っちゃって(笑)

落ちた当時は、「今度ここを走る時は絶対受かっててやる!」みたいな感じで張り切ってましたね。

でも心の中で自分が「デキる子」だと勘違いしてしまう所があって、勉強の仕方を見直したり、現実と向き合わない姿勢を反省する気はなくて・・・ここからどんどん堕ちていきます。

試験に落ちた僕はもう学校も卒業し、正看としても働けない。

そう、辿り着いたのはモラトリアムなんです。

しかも真面目系だろうが、カスはカス! 2回目の時も周りの期待を裏切らない(?)ハイペースでボケ道を突っ走ってました。

「こんなに時間あるんだったら旅行でもしたいな~」と能天気にポテチ食いながらお金持ちになった自分を妄想したり、使ってたテキストに「お前のせいだぁぁ!」と言わんばかりに頭突きしたり、何故か勉強につぎ込むべき時間を使って筋トレに没頭して、お陰でこの頃はベンチプレスとかも95kgぐらい上げてました。

今振り返ると、勉強しても受からない無力感と、周りに置いてかれていく劣等感もあり、無意識にペンを持てなくなっていたんだと思います。

帰ってきてはビール飲みながら韓流映画見て泣く日々ㅠㅠㅠアイゴーㅠㅠㅠ)。こんなんじゃ受かるはずないですよね。

絶望にも慣れてくるせいか、2回目に落ちた時は思った程ショックではありませんでした。

でも段々体力的にも精神的にも辛くなってくるんです。何時間勉強しても先は見えないし、人生で一番輝いてるはずの20代が目の前を過ぎ去っていく・・・

何より辛かったのは親しい友達が一人前の正看護師になっていく姿を、心から共に喜べなかった事です。

頭はあんまりでも、人を大切にする思いは今まであった筈なのに。自分の事をそれなりに「良い人」だと思っていたけど、それも環境の産物だったんだと感じました。

そんな自分にも関わらず、心の底まで追い詰められていたその時に、遠くに引っ越していった学部時代の友人達から励ましの手紙がたくさん届いて、救われました。その手紙は今でも大切に持っています。

「また一緒に働きたいんだから、頑張ってよ」と言ってくれたり、具体的に参考書とかのポイントを教えてくれたり、「苦しいよね、自分も最近辛い事があって…」と寄り添ってくれたり、

こんな僕でも大切に思ってくれて、一緒に笑って、一緒に悲しんでくれる仲間に、合格して感謝を示したい!

この時僕は、自分の弱みと本気で向き合う決意をしました。

“Don’t just study hard, study smart!”

でも、まず一つ目にお金がない。

今まで助手とかインターンとして経験を積ませて頂いた所も二度落ちた人に手を差し伸べる訳もないので、自分の生活を守る為に仕事もいっぱい掛け持ちしました!

日中はスタバで働いて、早朝とか夕方は英文講師とか外国人の方々に日本語の文法を教えたりして生活をつないでました。(今でも多分ラテ作れます。メニューが増える季節の変わり目がつらかったなあ。)

しかし、実はスタバでの経験が三回目の受験には大いに役立ちました。

「うわっ!今日キャンペーンかぁ…ヤバい」

飲み物を作る手順とかは全然覚えられないくせに、産地の情報とかを覚えるのは得意で、手順なども裏付けとなる理論を先輩に教えてもらえるとすんなり覚えられることに気づいたのです。

同じように僕は医療の分野でも手順にめっぽう弱く、生理学的な理論とか解剖学の図を覚える方が断然得意でした。

それなら覚える手順やプロトコルの一つ一つにセオリーを掛け合わせれば良いだけで、コツを掴んだ僕は今までの百倍のスピードで参考書を駆逐していきました。

そしてついに・・・

人間は期待値が上がれば上がる程緊張するんじゃないかな?最低でも僕はそうでした。

今回は文字通り三度目の正直で、一回目の時以上に手応えがあった為、結果発表当日はおつりを差し出す手も震えっぱなしで多くのお客様からガチな哀れみの眼差しを受けて・・・帰って確認すると、

合格してたぁぁぁぁぁ!

「えっ、受かってる!」

ついに正看護師になった僕は動揺のあまりどうすれば良いか分からず、震え続ける手で素振りをしました(本当です、左打ちです)。

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必要とされないって、辛い

早速再び正看護師としての就職活動を始めたのですが、

2度落ちてる事もあり、今回も合格する見込み無しと思われていた僕は内定無しのまま試験に受かってしまったのです。

就職シーズンはなんだかんだもう終わっており、求人も経験者向けのものばかりだったのですが、そんなこと気にしていられません。募集中の所は片っ端から受け、その数なんと47(都道府県数と同じ)。

しかも結果から言うと全部落とされました。

「やっぱオレ凡人以下だわ」

10落とされる迄はまだ期待する余地があり、志望理由書とかも必要であれば一づつ丁寧に書き、応募もやる気満々でこなしていました。

流石に余裕はありませんが、まだ希望に満ちてましたね・・・

20落とされる頃には、三度目で受かった事とか、経験年数が少ないのを理由に足切りを喰らう事に慣れてきます。まぁ、そーっすよね。病院・クリニックとしてはもう新人は雇ったし、後はリーダーとして引っ張っていける人しか必要ないっすよね。

でもこっちからすれば雇ってもらえるかどうかは死活問題なんです!こんなに頑張って勝ち取った資格を無駄にしたくなんかありません。

30落とされた時は、もう精神的にボロボロでした。

新しく応募をするにしても、「多分ダメなんだろうなぁ・・・」みたいな感じでやる気がでないし、自分を大切にして下さる人達に当たってしまう事もありました。

無礼な態度をとった事とか振り返って「あぁ、自分って本当にクズだなぁ」って思って人と話さなくなる、自分がもっと嫌いになる、やる気出ない、また落ちる、の無限ループにはまってました。でも、諦める訳にはいかなくて。

40落とされた頃はもう求人ページを見るだけで頭痛が起こり、「誠に残念ながら貴殿のご希望に添えかねる結果・・・」の文字を見るたびに吐き気がしました。

それまでは新しい人と知り合うのも大好きだったのに、周りの人全員に劣等感を抱えるようになってて、話す時に頭の中がごちゃごちゃになってしまって手は震えるし、どもるし、何かに怯えている様な自分じゃない自分に戸惑い、失望しました。

(ちなみに自分は今でも結構この後遺症が残っていて、克服中です!)

「ここまで来ると涙もでなくなるんだな」

誰にも必要とされないって本当に辛かった。

自分の思考や発想全てが価値のない様に思えて、アイデンティティが失敗体験の一つ一つに汚染されていく感じ。

ひねくれ根性で自分の無価値さに価値を見出そうとしてもやっぱりダメで、その頃は以前と比べても街行く人がとてつもなく冷たく感じました。

この話東大と何の関係があるの?

はい、そうですよね。全然ここまで東大と関係ない話でしたが、ここから違うお話を挟んでいこうかと思います。

ちょっと時を遡り、国家試験の為の勉強をしていた頃の話ですが、以前から語学力にちょっと自信があった僕は「将来機会があれば奨学金でももらってアメリカの大学院に行きたいな~」みたいな、地に全く足のついていない甘い考えを持っていました。

マジで優先順位しっかりしろよ!って話なんだけど、初めて国家試験に落ちる前、まだ人生をなめていた僕は不意にGREという海外大学院出願試験の受験を決意したんです。

「エビデンスのない宣伝文句に負けて買ってしまいました」

この時に限って奇跡が起こり全米のトップ2%に食い込む事に成功したことによって、一気に多くの有名大学が射程圏内に入ったんです。

試験は数学・筆記・読解力の3つの分野から成り立つのですが、難しいと言われる読解力で結果を残す事ができたのは本当に嬉しく思いました。

今まで文学が好きで良かった!この時、自分に合ってる分野を選ぶ事の大切さ(それと、いかに今の分野が自分に合ってないか)を身を持って知りました。

時は進み国試に合格したはしたものの、病院・クリニックに落とされ続けて精神的に追い詰められていた当時、僕は一緒に大学時代の友達とバンドを組んていたんです。

目標が狭くなり過ぎていた時、「看護以外の未来もあるのかも」、と世界を広く見る余裕を持つスペースを与えてくれたのは彼らでした。

学校にずっと通ってると受け身になりがちで、特に自分は「試験勉強・就職活動」という枠組みの中で視野が狭くなって、将来設計さえ皮相な深みのない人間になっていたんです。

自分で書いた曲を演奏する事を通して久しぶりに想像力を生かす楽しみを感じ、音楽を通して人と繋がり、なにより自分が将来立派な何かを「成し遂げられなくても」周りでサポートしてくれるコミュニティーがいる事を再認識できました。

この経験を通して、自分が何を一番大切にしたいのか段々思い出せるようになったのが、今の挑戦につながってます。

「一人じゃできない事をするのが楽しい!」

大学二年生だった頃、僕が元々医者ではなくて看護師にを志した理由は、人と関わるのが好きだったからです。

そして、ある授業で「医者の仕事は患者さんの病気を治す事、看護師の仕事は医療チームを通して患者さんを幸せにする事」と教授に教えられてからは本当に看護師という職業に誇りを持つようになりました。

特に、医療システムと、少なからずどの大都市にも存在する移民の方々との懸け橋になる事は、今でも成し遂げたい事の一つです。

でも実習やインターン、助手として現場に出ていると医療従事者一人の力では改善できない事があまりにも多くて。

通訳者がいなかったり、文化的背景が違ったり、交通弱者の方々は病院にさえ来れなかったり、身体だけでなく心理的トラウマを持っている患者さんの為の包括的サービスが足りなかったり、そして何より意志があっても他の作業で忙しすぎて時間がない。

だから枠組みからアプローチする為には法律や決裁方法の知識、そして経済学的知識も必要だという結論にたどり着き、今は看護師としての経験を積む事が優先でも、大学院に進学する機会があれば法律、経済か公共衛生を学ぼうと思ってました。

頭の良い友達にどの分野を勉強すればいいか相談すると、「俺もぶっちゃけどんな分野か詳しく知らないんだけど」と言いながらも法学、経済学、政治学を掛け合わせた側面もある政策学を進めてくれました。

最初はアメリカの大学院に進む事を希望していましたが、自分がもう一つ興味を持つ分野としてアジア圏の政治・経済関係があり、「両方勉強する機会が与えられないかなぁ~」と思ってた時に、

先輩がキャンパスアジアという東大・北京大学・ソウル大というアジアを代表する大学の共同プログラムに進んだ事を思い出して色々相談しました。

先輩からは授業内ディスカッションの自由な方向性とか、在学生の有能さや多様性についても伺い、「オレ・・・受かるかな」とも思いつつも非常に興味をそそられ、受験を決意したのです!

食べ物とか風景とか、色々ひっくるめてアジアが好きです!

K-Popジャンキーと化した脳をフル回転させて志願書も本気で書いて、面接も本気で受けた甲斐もあって何とか合格した僕は東大の公共政策大学院に進む機会が与えられました。

でも「めでたしめでたし」で完結する訳でありませんでした。何故なら・・・

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うぇぇリスク取りたくねぇな

ちょうど公共政策大学院に合格した頃は就職失敗記録も30の大台に乗せた頃で、まだ正看護師としての経験を積む事が優先だっただけでなく、応募書の書き方も上達してきたのか稀にでも面接に呼ばれるようになっていたからです。

「もしかしたら後ちょっと粘れば安定した生活が待っているかもしれない。まずもっと経験を積んだ方が良いかもしれない。」

という気持ちは物凄く強く、いくら自分の行きたいプログラムだからといってすぐに決断する事はできませんでした。

その当時すでに地元は離れていましたが、良い友達にも恵まれ、自分が不得意ながらも選んだ職業に誇りを持ち、就労環境以外の面では色んな意味で充実している中で再び分野を変え、引っ越す事に躊躇もしていました。

将来はアメリカとかシンガポールとかに住んでみたいし、そしたらお金を貯めてから海外の大学院に進んで現地で再就職した方が良いんじゃないか、とも思ったり。本当に悩んだなぁ。

進学する方向へと心を傾かせるきっかけとなったのはキャンパスアジアの卒業生が書いた一つの記事です。

公共政策大学院の卒業生の進路や関心事について調べていた時に見つけたのですが、アジアという枠組みの中でお互いに対する理解を呼びかける真っ直ぐな声に僕はかなり衝撃を受けました。

この記事の筆者は「近くて遠い」という東アジアに蔓延る声と向き合い、実際に韓国や中国で慰安婦の方々の元へ出向き、今はその経験を糧に更に進化・発信を続けていて、

僕は「こんなに本気で何かに取り組んでる人がいる学校に行きたい」と思うようになりました。

慰安婦問題に”向き合う”挑戦。「東アジアは自分の一部」
学問・研究
慰安婦問題に”向き合う”挑戦。「東アジアは自分の一部」
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長川美里
2016-03-11

記事だけでなく、もう一つ自分の人生で方向性を変えるのならば早ければ早い方が良いなと感じる出来事がありました。

自分と同期の人たちと話していると、職種に関わらず今の仕事に不満を持っている人が多くいて。その中でも危機感を覚えたのは「もう選んじゃったんだからしょうがないよね。でも、まぁ安定してるし。」という声が思ったより多かったことです。

頭で納得しても、心が満たされないキャリアで満足できる自信は自分にはないし、どんな道を選んでも責任を取れるように行きたいと思った末に・・・

ちょうど新学期が始まる2か月前に進学する意思を固めました!

そして全部合わせると、白

「いつもこんな表情をしていたような…」

挫折した経験から得るものもあれば、失う事も多いです。昔と比べてビクビクするようになりましたし、自信も無くなったかもしれないです。

でも自分は今までの人生の中で一番可能性を感じてます。自分が不得意な分野を選んだ事や失敗を繰り返した事で大いに成長した事は確かだし、一周回ってまた真っ白のキャンバスに向き合っているような気分です。

今までは看護師一辺倒だったのが、公共衛生だったり、国際機関だったり、ITだったり、若しくはここで得た知識を生かして医療に里帰りするのも良いし、選択肢が大いに広がりました。

他の挫折経験記事のエンディングの様に失敗を通してスゲェ何かを成し遂げた訳ではないけど、必死になれたし、挫折を通して安定した生活以上に自分が取り組みたい事に対して正直になれた気がしてます!

そして挫折を通してもう一つ良かったのは、本当に自分の事を気にかけてくれる人がいる事が分かった事です。

イケてるときとか波に乗ってる時は自然と人が寄ってくるけど、自分の社会的価値が無くなった時に全員友達として残ってはくれません。

拒絶されたりもう役に立たないと言われるのは辛いですが、励ましてくれたり、距離的に近い・遠い関係なくサポートしてくれる方々の暖かさはそれ以上心に響きました。

あの頃を知ってるみんな、本当にありがとう!みんなが誇りに思える人間になろうと頑張ってるけど、多分何も成し遂げる事ができなくても戻れば歓迎してくれると思う・・・そのお陰で失敗を恐れず様々な事に挑戦できてます!

やっと自分がいつ入ったのかも分からない長いトンネルの先に光の様な何かが見え始めて、今度は自分が誰かを励ましたいなと思いパソコンに向かっています。

まだハッピーエンディングじゃないけど、記事を通して誰かに寄り添う事ができれば嬉しいな。一緒に悩んで、一緒に笑いましょう!

皆さんも、きっと一人じゃないです。

この記事を書いた人
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準急
人生そんなに急がなくたっていいじゃん ^^
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