「東大生には、立ち止まる勇気を持ってほしいと思います」。
2017年4月。150人を超える学生が詰めかけた駒場164教室で、ある女性がそう訴えました。その中の一人であった私は、かすかな震えを伴ったその声を、今でも忘れることができません。
ときは遡り2015年暮れ、広告代理店・電通の新入社員として働いていた東大OGの高橋まつりさんが、自ら命を絶ちました。月100時間を超える残業を課せられた末の出来事でした。社会的にも大きく取り上げられましたから、みなさんの中にもご存じの方がいるかもしれません。
このまつりさんの母・幸美さんこそ、先ほどの女性に他なりません。冒頭の言葉は、これから社会に出る東大生に向けて鳴らした警鐘だったのです。
きっと新聞やテレビを介してこの事件を知っただけだったなら、ここまで強い印象が残ることはなかった。やはり、ご遺族が語りかける言葉に対し直に耳を傾けたからこそ、感じることがあったのではないかと思っています。
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私は、「法と社会と人権ゼミ(川人ゼミ)」で1年半のあいだ学んできました。「現場主義」を掲げるこのゼミで私は、多くのものを見、聞き、そして考えることができたと感じています。
今回は、多くの方に川人ゼミを知っていただきたく、講師である川人博先生にインタビューしました。
ゼミ生でない方であっても、必ずや感じるところがあるのではないかと信じています。
記事の最後では、駒場祭で行われる「模擬裁判2018」についても紹介します。
川人ゼミは、正式名称を「法と社会と人権ゼミ」といい、過労死訴訟を専門とされる弁護士、川人博先生などを講師とした、東京大学前期教養学部生(1・2年生)向けのゼミ(全学自由研究ゼミナールまたは自主ゼミ)です。
「現場主義」をモットーに、様々な社会問題の当事者や現場の方のお話を聞くことに加え、実際に現場に行って実情を学ぶことに重点を置いています。
ゼミのことは知らなくても、川人先生の名前を聞いたことのある方もいるのではないでしょうか。
というのも、冒頭で紹介した電通の過労死事件で遺族代理人となり、労災認定を勝ち取ったのが川人先生だからです。
「過労死問題の第一人者」として弱者救済に大きく貢献しており、NHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演するなど注目を集めています。
では、ここからは川人先生ご自身にお話を伺ってみることにしましょう。
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––––まずは、川人先生のお仕事について伺いたいと思います。普段はどのようなお仕事をされているんですか。
最近の弁護士の働き方には、大きく分けて二つあります。
一つ目は、一般市民からの様々な法律相談に乗り、それでも解決しない場合には代理人となって訴訟をしたり、相手方との交渉をしたりするというもの。
二つ目は、最近増えているのですが、いわゆる企業法務と呼ばれるもので、企業からの相談を受け、法律上の問題点整理などを行い結果を企業に報告する、といった仕事です。この場合、裁判所にほとんど行くことのない弁護士もいますね。だから、全部の弁護士を網羅して「こういう仕事だ」と定義するのは難しいです。
私自身は前者のタイプです。1日に3件くらいの案件を扱い、法律相談や交渉、現地での調査を行っています。例えば、今日の午前中は市民間の紛争の交渉をしていました。明日は名古屋に朝から出張で、夕方に東京に戻ってきて金曜5限の法と社会と人権ゼミの授業に行きます。けっこう忙しいですね(笑)
––––なるほど。一言で弁護士といっても、いろいろな働き方があるんですね。では、様々な分野がある中で川人先生が労働問題を専門にされているのはなぜなのでしょう?
私には、小さい頃から「社会的な弱者を救う仕事をしたい」という人生の目標があったので、企業法務は最初からあまり考えていませんでした。
私が弁護士になった40年ほど前は、ちょうど労働問題が注目され始めた時代でしたから、そうした世の中の流れの影響を受けたというのはあります。また、私は労働問題の中でも「労災(労働災害のことで、通勤・業務中に発生した怪我や病気のことをさす。うつ病などの精神障害になった場合も含む)」の専門なのですが、それは親の影響が大きいですね。親が医者だったので、健康問題に関することは身近でした。
––––弁護士というお仕事にはどのようなやりがいを感じていらっしゃいますか?
「弁護士には多方面のやりがいがありますが、一番よく言われるのは「個別の事件を扱うことで具体的な人の救済やサポートができる」ということですね。これは、医者と同じです。具体的な相手がいるというのはやりがいにつながりますね。
ただ、わたしはそれだけではないのが弁護士のいいところだと思っています。
具体的な事例を普遍的な問題へ昇華させ、政策提言を行うこともあります。例えば、私は過労死の問題を扱っていますから「労働基準法のここを変えたほうがいいんじゃないか」といったような提言を国会や行政庁に対して行ったり、「過労死シンポジウム」を開催して世間への呼びかけをしたりもします。
また、「研究者」的な仕事もありますね。法律学や社会学についての論文を書いたりすることもあります。
私は、一つ目についてはもちろんですが、二つ目・三つ目について特に強くやりがいを感じています。ときどき「弁護士は個別の事件だけ扱っていて世の中全体のことはやれないから物足りない、そこが官僚と違う」というようなことを言う人もいますが、私はそれは誤解だと思います。具体的な事例を通して現状を知っている弁護士だからこそ、社会全体への政策提言ができるということもあるんです。」
––––では、次に川人ゼミについて伺います。1992年以来ゼミを開講されていますが、なぜ教育活動に携わろうと考えられたのですか。
私が東大の学生だったころには、前期教養学部(1、2年生)のゼミはほとんどありませんでした。大きな部屋で教師が黙々と喋る授業がほとんどで、その頃からもっとゼミを充実させるべきだという思いを持っていました。私の在学中にはストライキも多く、学生主体の自主ゼミが盛んになっていったんです。それを受けて、大学としても教室の提供をする、単位を与えるなどの措置を取るべきなのではないかという機運が高まり、1970〜90年代にその動きが広まっていきました。大学側のカリキュラム改革もあってゼミができる環境が整えられたので、自分が講師を担当してゼミ活動を充実させようと考えました。
また、弁護士になってから、大学という環境がいかに世の中の現状からかけ離れているのかを実感したというのもありますね。私は川人ゼミは「社会の窓」だと言っています。川人ゼミのフィルターを通して学生が実社会に接近できる、そんなゼミをつくりたいと考えたんです。
––––確かに、大学の中にいるだけではなかなか社会に触れる機会はありませんよね。では、川人ゼミのモットー「現場主義」にもそうした思いが込められているんですね。
大学での学びは、良く言えばアカデミズムですが、空理空論になってしまっている部分もあります。
特に東大生は、小・中・高の頃にアルバイトをしていた人はほとんどいないし、大学生になってからも家庭教師などのアルバイトをする人が多いですよね。つまり、実社会を経験したことがほとんどないんです。
そんな社会での経験のない学生たちが大教室での授業を受ける。これはこれで必要なことですが、あまりにそちらに偏りすぎている。だから、「現場に出て学ぶ」ことをゼミの柱にしています。興味を持ってくれる学生が多くここまで続いているのは嬉しいですね。
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