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認知とうんち

2017.04.26

※当記事には不快な表現が含まれている可能性があります。心を広くしてお読みください。

我々は自分の体のことを自分自身でどれだけ理解できているのだろうか。
自分の腕の輪郭をどれだけ明瞭に意識できるであろうか。
もし、今、右腕を動かすように意識している方法で、左足が動いたとして、我々はその変化に気付けるのだろうか。
どこまでが自分でどこからが自分ではないのか。

思考実験で語られることが多く、形而上学的でわかりにくいこの話題を、本記事ではうんちから紐解いていこうと思う。

ウォシュレットとの出会い

あなたはウォシュレットを使うだろうか?

私は男性であるが、ウンチをする際は断固として使う。
これまでの人生でウォシュレットを使わないという人間とも数多く出会ってきたが、彼らは8割型性格が悪いし、そうでなくとも月に一度は1000円を借りにくる。

当の私は、東大生であるし、初めてのトイレトレーニングの時点でウォシュレットを利用し始めた、根っからのエリートである。

私の家族は大変綺麗好きであり、直接鼻くそをほじっていたのは家族の中では、私と祖父だけであった。

また、祖父は、2日に一度しか風呂で髪を洗ってはならない、洗いすぎてはハゲてしまうという哲学を抱き、実際に髪を洗うのは2~3日に一回というハゲである。

その祖父ですらトイレでは(利用後に手は洗わないが)立派にウォシュレットを利用していた。

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ビデ

私のトイレトレーニングは母によって行われた。

当時私の体重が軽く、便座に私が腰掛けただけではウィ〜ンってなる奴が鳴らなかったために、母がウィ〜ンと鳴るように、私がウンチをしている最中も便座に体重をかけてウィ〜ンさせ続けてくれていたことを未だにウィ〜ンするたびに思い出す。

私の母親は初めてのトイレトレーニングの際にミスを犯した。
いや、普通ならばミスではなかっただろう、
先述した通り私はエリートである。

1を聞けば10を知ってしまうような少年だった。

そんな私に、

母は初めてのトイレでのウンチの後、

ビデを施した。

ビデを施したのだ。

このボタンのピンク色のデザインを見た私は、

大きな過ちを犯すことになる。

「ピンク色のビデは温水、

お尻は冷水ということか。」

人並みに敏感なアナルを持っている私は、

今後の人生でビデを使っていくことを選んでしまったのである。

ブリーフ

当時の私は、白ブリーフを愛用していた。

清潔な家であったため、洗濯機を一日2度は回していた。
洗濯物を出した翌々日には綺麗に洗われた衣服が自分の手元に戻ってきていた。

しかし一つだけ不可思議なことがあった。

いや正確には、ずっとそうであったから私自身はその不思議さに気づかなかったのだが、

私の白ブリーフは、家族の衣服とは別で洗われていた。

なんなら、私のブリーフ用に洗濯板が用意されていたのだ。

確かに私のブリーフは汚れていた。
汚れたブリーフで想像できるブリーフの1.5倍程度は汚れていただろう。

あまりにも汚い。
母親が私にそう話してきたのは小学校の5年生になる頃だった。

この歳になってこれだけブリーフが汚れるのは、
もはやケツから微量のウンチが常に出ているとしか考えられない。

病院に行こう。

そう告げられた。

鏡に映る真実

私は信じられなかった。

当時の私はサッカーをやっていて、
小学校の児童会長になることも決まっていて、
バレンタインデーにはチョコをくれる女の子もいた。

そんな自分のケツから、
常にうんちが染み出しているなんて、
ケツにここまで大きな爆弾を抱えているなんて。

女の子からチョコをもらう瞬間も、

児童会長選挙の演説の瞬間も、

私のアナルは緊張を知らなかったというのか。

私は落胆し、自信を失った。

幸い両親は私の決心がつくまで病院にいくのを待ってくれていた。

今ではすっかり信じられなくなってしまった自分のアナル。

そういえば、俺は生まれてから自分のアナルを見たことがなかった。

病院にいくのなら、その前に自分の目で確認をしておこう。

そう決心し、風呂の鏡の前に立った。

そして私は驚愕の事実を知ることになる。

「アナルが・・・・上についている・・っっ!!!」

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拭き取っていたものとは

今まで、私はウンチをした後に、そこまでトイレットペーパーが汚れたことはなかった。

なんならほぼまっさらであった。

それもそのはず、私は何もないまっさらな部分を

ビデによって濡らして、

ただ拭き取っていただけなのである。

私の半生は、

ウンチをした赤ちゃんの、オムツではなく、Tシャツを変え続けていた様なものだったのだ。

これからを生きる若者に向けて

私は自分のアナルの位置を直接ではなく、ビデによって知っていた。

いや、知っている気になっていた。

私は、自分の体を外部からの刺激によって判断する、生まれながらの教養人であったのだ。

歴史を尊重し、先人の設定したビデの行く先を疑うことはなかった。

制度というものが完全だと思い込んでおり、
疑うということを知らなかった。

この世界の誰が正しいか。

世界は自分の認知する世界であり、
そこで行われる正誤の判断は自分によってしか行うことはできないはずだ。

誰がなんと言おうと、たとえその誰かが自分の親だったとして、
情報の真偽は自分で確かめなくてはならない。

高校までは、答えを探すことを学んだ。

大学からは、常識を疑うこと、それを学ぶべきだ。

さあ、あなたのアナルはどこにある?

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UmeeT編集部
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