代替可能な自分
僕は中学高校時代を神奈川の栄光学園で過ごした。
中学時代はただ自宅のパソコンがウイルスに感染しやすいだけの砂利っ子だったのだが、そんな僕が学生時代に本気で熱中するものが一つだけあった。学校の文化祭である。
私立中高一貫の男子校の文化祭には私立の女子校や付近の高校から女学生が訪れるのである。当時の僕には、彼女たちが何のために男ばかりの学校の文化祭に来るのかなど滅法見当もつかないものであったが、そんなことは二の次であった。
女子学生と触れ合えるその一点において僕にとって高校の文化祭はこの上ないイベントであったし、愛しのあの子に白球を投げられる文化祭の実行委員は羨望の対象の他無かったのである。
一切の迷いなく初めて運営側に関わったのは中学3年の頃である。(僕の学校では中学3年からしか運営に携われないという規則があった)
我々実行委員は僅か2日間のために、莫大な時間をかけて当日に向けての準備に勤しむのであるが、志を同じくする仲間たちと過ごす時間はこの上なく心地よく充実していて、それはいざ文化祭の当日を迎えても、念願の女子学生には目もくれず文化祭の運営や進行ばかりに気が回ってしまうほどであった。
なんとも愚かな少年だと思うことなかれ、この頃には既に僕は心底文化祭に魅了されてしまっていたのである。
文化祭に対する変わらぬ愛情を抱き続けた僕は、高校2年の時に念願であった実行委員長という役職に収まった。この文化祭の実行委員長というポストが良くも悪くも自分にとって重大な意味を持つこととなる。
今思えば高校の文化祭は高校の文化祭に過ぎないのであるが、就任当時の僕は宛ら僕の全人生を懸けているかのような気持ちの入れようであった。
この手で文化祭を最高のものにしてやるという気持ちしかなかった。優秀な自分の部下(もちろん同学年なのだが)を取りまとめ、然るべき方向へと平静と情熱を保ちながら彼らを導くのが僕の仕事であると自負していたし、それは当然困難を極めるものと予期していた。
しかしながら、蓋を開けてみれば拍子抜けなもので、僕と一緒に文化祭の運営に携わる人間は、すでに2年間の経験を積み良き先輩方からノウハウを集積していたし、自ら率先して携わろうという彼らが有能でないはずがなかった。
僕の仕事といえば、会議の司会進行や全校生徒への挨拶等を除けば、学生と教員の時に対立する意見のすり合わせ程度であったが、それでも自分が仲間の運営を助けているということを実感しながら毎日を過ごせていた。
だがある日、教員から何かとてつもなく精神を削られる一言を(当時の自分が感じたことである)浴びせられたのを境に、目に物を見せてやろうという反骨心が湧き上がり数日間自分の仕事をさぼってみることにした。
なんともエゴイスティックな考え方であったが、自分がいないことで増える仕事に慌てふためく教員や仲間に自分という存在を求めて欲しかったのであろう。
数日後に自分が仕事場に戻った時の光景を自分は想像だにしていなかった。
自分がいない間にも物事は平然と進んで行き、仲間や教員には優しい言葉をかけられ、心なしか実行委員室が綺麗になっている気すらした。
自分の周りにいる人は皆自分を必要としているのだという17年間をかけて培った自尊心が音もなく砕け散り、それと同時に自分の自尊心の存在を知った。
ぽっかりと空いた隙間には綺麗に『代替可能な自分』という感覚が収まって、そこから先は酷かった。
今ではあれがidentity crisisだったんだななんて澄ました顔で言えるけれど、当時の僕にとっては大問題なんて言葉で言い表せるはずもなく、朝家を出たら学校に行かずあてもなく公園をぐるぐる歩き回ったり、学校から帰っても気づいたら当たりが暗くなるまで歩いていたりした。
誰と話しても『自分である必要性』を感じることができず退屈だったし悲しかった。冗談抜きで神に縋ろうとしたことすらあった。
そんな日々を送っているとあっという間に時が過ぎて、文化祭の当日を迎えた。
本当に素晴らしい文化祭だった。僕は心の底で無力感を抑えられなかったけれど。
後日ベテランの先生に今までの文化祭の中で一番良かったと称賛されたのがただ苦しかった。素直に喜べないのではなくて喜ぶ資格がないと思っていた。
文化祭に携わったことで、自分がいなくても世界が周っていることを痛いくらいに感じさせられ、それからは自分の必要性の如何を自問自答する日々が始まった。