編集長の座に舞い戻りました杉山です。東大の学術を軽視した罪で更迭されてました。
が・・・心を入れ替えました! その証拠に、去る12月16日夜、東大で様々な学問を究めんとする学生を集めて
「UmeeT学術交流会」を開催しました!
「優秀な学生・研究者がたくさんいるのに、専門が違うと全然会わない・・・ってあまりにもったいない! せっかく東大に居るんだし、学問のこと、楽しく話しませんか?」というわけで、文理の壁、学部と院の壁をぶち抜いて、7人の研究ガチ勢が集まりました。
今回のトークテーマは、
「帰省して家族に、『あんたの研究何の役に立つの?』って言われたらどうかえすか」
年の瀬に学問に向けられた切実な問い。繰り広げられたアツい議論をここで再現します。
議論がまずここから始まるのがさすがガチ勢。そもそも何でこんなこと聞かれなきゃいけないんだっけ? 3つの論点が生まれました。
文系はあまり「役に立つの?」と聞かれない。最初から仕事にするつもりがないんだろうと思われているから。院に行くとか研究を続けるとかになると聞かれやすい。
これは個人に向けられた切実な問いで、「食っていけるんですか?」というもの。
特に家族とかに言われがち。でも受け止めるしかない。多くの、研究に魅入られた人たちがそれぞれ戦っている命題でしょう。
これも文系だとあんまり聞かれないのは、理系の方が「役に立ちそう」だからかも。文理共に、基礎系の学問はこれを説明するのが難しい。どうしてでしょう。
そこにはタイムスパンの問題があるようです。「役に立つ」って、いつまでに役に立てばいいのか? という問いです。
基礎系の学問であればあるほど、「役に立つ」までとっても時間がかかる。しかもそれが本当に役に立つのかも予測しづらい。
でも今使われているあらゆる素材は、基礎科学あってこそ、性質が理解できて応用できるんだし、物理法則に至ってはずっとずっと残り続ける。
哲学の世界に至っては、大昔に書かれたはずの本が、今になってもめちゃくちゃ読み応えがあるし、なんなら「現代のために書かれたんじゃないのこれ??」みたいなものもザラ。当時は誰も理解できなかったろうな。でもこれがなかったら今どうなっていることか! それが基礎学問のタイムスパンな訳です。
これを家族に伝えようと思ったら、「怪我してから薬作ってるんじゃ遅い! 来るかもしれない未来のために頑張ってるの!」と言ってみるのがいいかもしれません。
そして、長くかかる基礎学問は、実はとっても根本的で影響が大きいテーマを扱っていることが多いです。「今使えるもの!」はすぐに使えなくなるし、小さな問題を少しずつ解決していくことが多い。政策を作るとか、製品を作るとかはそういう側面があります。(もちろんそれも素晴らしいです)
でも基礎学問が長い長い時間をかけて生み出したものは、ものすごい効果を未来の世界に与えるかもしれないわけです。宇宙人がいるかもとか、世界の始まりとか、人間の生きる意味は何かとか。基礎だからこそのロマンがあるわけです。
でも悲しいかな、そこにお金は回って来づらい。早く役に立って欲しいし、早くお金になって欲しいと思ってしまうから。
「世の中のためになるか」に付随して、学問にお金をつぎ込むことの難しさの議論が盛り上がりました。
個人では(100年とかで死んじゃうから)無理でも、法人とか国とかなら超長期の投資を考えることはできるはず。実際Googleとか、人工知能やら自動運転やらの技術を買いあさっている。
でも、そうは言っても「将来、役に立ちそう」な学問にしか超長期で気長に見たとしても投資はしづらい。未来は予測できないから、「今は信じられないかもしれないけど、将来絶対に役に立つはずなんです」と言っても、とっても不確実。
逆に、「一流の研究者ならお金にならないことをあえてやるべきだ!」 という意見も。人気とか実用性に縛られると、「学問上重要な研究」が歪められて、できないかもしれない。でもそれが「お金になったら偽物・二流!」みたいな極端な話になると、逆に歪んじゃいますよね。
学問研究において、お金の配分や投資の問題は本当に難しい。しかも全体のお金のパイは小さくなって行っている気がするし。
絶望のあまり、「お金を分配する人が神だったらいいのに・・・AIとか・・・」「そういうAI試そうとしてるらしいよ」という会話まで出て来ました。
でもそれでいいのか学問。自分で問うて考えるのが学問じゃないのか。その予算配分がAI任せって・・・とか思ったりも。
ロマンとも関わってきますが、3つ目の論点は「それってみんな興味あるの? 知りたいと思うような研究なの?」という問いです。この論点が最も盛り上がりました。ここが実は本質なのかもしれません。
何で研究してるのかと聞かれたら、今回のメンバーの多くは、「面白いからだよ」と答えました。「役に立つかなんて関係ない。だって面白いじゃん。面白いよね??」という感じです。
アートとかスポーツとかって、最初から役に立つかどうかなんて聞かれない。見てて・やってて面白いからお金が回ってるわけです。学問だってエンターテイメントなんじゃないか。
だってそもそも学問が発展したのって、奴隷に働かせて暇すぎた貴族とか市民がいたからで、暇つぶしの楽しみの一つだったわけですよ。スポーツやアートと変わらない。意味のないこと、役に立たないことの方がむしろ楽しくて面白い。
現に今僕たちは金曜の夜に、なぜか知らない人同士で集まって、学問について議論して、めちゃくちゃ楽しいわけです。楽しいからやってる。それがモチベーションの本質なのかもしれません。
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みんなが注目すれば、企業がお金を出してくれたり、個人からお金が集まったりする。メジャーなスポーツはそれに成功しているし、アートも一部はお金がまわっている。
「すぐには役に立たない」ような研究を存分にやるためには、その面白みを何とか伝えることが必要になる。そうすればそれがお金になる。お金が集まるところには一気に集まる。その格差はどうしても出て来てしまう。それが資本主義の仕組み。
税金を使うとしても同じで、みんなが面白いと思ってくれないと「いつ、何の役に立つの?」と言われてしまう。逆に、実を結ぶのに時間がかかる研究でも、みんなの興味があって応援されていれば、そんなことそもそも聞かれないはず。
アートもスポーツも、「人間ならではの趣味」というカテゴリーでライバルだとすると、何とか学問も戦っていかなきゃいけない。それは、わかりやすいものや役立つものになろうという話ではなくて、そのままやりたい研究を続けつつ、「なぜそれが面白いのか」を何とか伝えようということです。
みんなの注目(=お金)ってどこに行ってるんだろう? ・・・今だと星野源かな。
でも学術の面白みって、みんなに分かるものだろうか・・・? どうやったら伝えられるだろう。
教えてもらう・教えてあげる、っていう関係になっちゃうと、何だか面白くなくなってしまう。何とかして身近に感じてもらえるようにキャッチーにしたいし、できるなら体験したり、一緒に学んだりしたほうがきっと面白い。
学校教育でみんなが「学問」に出会う時、大体「やらされるもの」になっている。それが楽しむことから遠ざけているのかもしれません。
もしも学校の勉強として「ポケモン」をやらされてきて、全部のポケモンのステータスが入試に出る、とかだったら、趣味として楽しくポケモンをやることはない気がしますもんね。
学校で、「考える楽しさ」を運良く知れた人が、ある意味「ゆとり教育」がうまく行った場合の例なのかも知れない。そしてそういう人が東大には多い気がするよね、という議論も出ました。実際、こういう議論ってどの東大生も大体楽しんで参加してくれそうなんですよね。
そしてもちろん、世の中の全員が学問を好きにならなきゃいけないわけじゃない。星野源ですら、興味がない人はいる。
<今回のまとめ>
学問に興味を持ってくれそうな人が、ちゃんとその面白みを受け取れるようにしたい。
そうすればきっと学問はもっと身近になるし、「すぐ役に立たなきゃ意味がない」なんて言われなくなってくるはず。
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UmeeTでも、学問の面白さを追体験できるような記事を目指していきたいと改めて思いました。
東大の各専門の学生が今年のノーベル賞の全てを解説したシリーズ「ノーベル賞Week」のように、時事ネタに乗っかってみたり、タイトルをみただけで読みたくなるようなキャッチーさを目指したり。(↓この記事とか、気になっちゃいませんか?笑)
学問と関係ないところから、「考える楽しさ」を追体験してもらう記事を目指したり。(↓の記事とか、ある意味そうだと思うんですよね)工夫していきたいです。
そして、記事だけに限定するのももったいないなと思いました。やっぱり参加できる場があるほうが、学問の面白みとか楽しさは伝わる。この場の議論の楽しさは、やっぱり記事に起こした時に全部は残せていないはずです。
というわけで、学問を語るイベントを今後もどんどん開いていけたらいいなと思います。もしかしたらその議論を観覧できたり、生放送で観られたりしたら、もっと伝わるのかも。挑戦してみたいですね。
これからもUmeeTの学術企画をよろしくお願いします。そして次回の学術交流会も、お楽しみに!