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ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞を考える。美しくて偏屈な吟遊詩人の魅力とは?【ノーベル賞Week①】

2016.12.04

2016年ノーベル文学賞の受賞者は米国ミュージシャンのボブ・ディランだった。このニュースは国内でも多くの話題を呼び、驚きや賞賛・批判、旧作のチャート入り、ベスト盤の発売・はてブ界隈のエントリー合戦に至るまで、昼夜ディラン旋風が巻き起こった。

ノーベル文学賞にコメントするにあたって厄介なのは、選考基準や過程が50年間秘匿されるという性質だ。果たしてディランの何が評価されたのかは推測するしかない。唯一の手掛かりは、授賞理由として述べられた「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」というセンテンスのみだ。

ちなみに、毎年「村上春樹、今年こそ受賞か?→またも落選」のニュースがあるが、50年間秘匿ルールがある以上、そもそも本当に村上春樹が候補者として選考対象になっているかどうかも分からないのである。言うなればアレは、本を売りたい・テレビに取材されたい新宿紀○國屋書店などによる、あたかもバレンタインデーのような季節イベントに過ぎないのだと言えよう。

音楽は文学か?

さて、印象深いのは「音楽が文学賞受賞なんてけしからん」という旨の意見である。とあるD婦人もこの意見を述べていた。彼女は、「文学というのは、何百ページもあって分厚いもの。非常に高貴な流れがあるもの」と発言した。無論、ノーベル文学賞初の受賞者はフランスの詩人プリュドムであり、このような意見は唾棄するべきものである。しかしここまで過激でなくとも、ウーン、音楽は文学なのか?という疑問は人々の中に生じうるものだろう。

文学(Literature)とは、文字によって文章が形成され、そこに芸術を生み出すものである。その中でも最も古い形式が「詩」であり、少なくとも西洋においては古代ギリシャの詩がその起源だといえる。ディランの歌は、古代ギリシャ詩、特に抒情詩との関連を幾度も論じられてきた。

古代ギリシャの抒情詩とは「歌うように」伝えられる口述の詩であり、ディランの歌は「話しかけるように」歌う音楽である。さらに言うなら、抒情詩はリラと呼ばれる竪琴を伴奏として語られ、ディランはギターを携えて歌う。こう考えれば、「音楽は文学か?」という疑問が的外れなものであると分かる。

今回、アカデミーは「詩とは元来、書くものではなく声に出して伝えるものだった」という点に着目したのだろう。事実、 スウェーデン・アカデミーのサラ・ダニウス事務次官はディランについて、「英語話者の伝統の流れをくむ偉大な詩人」と称賛したうえで、「その作品は古代ギリシャの詩人であるホメロスやサッフォーにも匹敵する」と述べている[1]。

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ノーベルの遺言とディラン

ノーベル文学賞の理念及び選考基準は、アルフレッド・ノーベルが遺言した「理想主義的傾向のもっとも注目すべき文学作品の著者に贈る」に基づいている。例外はあれど、基本的には作品単体ではなく作家の功績・キャリア全体が評価される。

ここでいう「理想主義的傾向」とはなにか?過去の受賞者に対する受賞理由から考えると、一言でいえば「道徳的」であることではないか。世界や社会(人間や自然、国家や民族、歴史)に対する洞察が深く、想像力に富んでいることが条件であると考えても大きく外れてはいないだろう。

そして前述のとおり、今回ディランへ賞が贈られた理由は「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」というものだった。「偉大な米国の歌の伝統」、そして「新たな詩的表現」。どちらも具体的な表現ではなく、筆者としても非常に厄介であるが、ひとまず上記2つの要素を念頭に入れながら、ボブ・ディランという男が何者であり、何を表現してきたのかを次章以降で述べたい。

先人たちに憧れたひねくれ者

ディランのキャリアをすべて振り返ることは割愛するが、若きディランについては簡単に触れておこう。

後のボブ・ディランであるロバート・アレン・ジママンは1941年に生まれ、幼いころから音楽や詩に親しんだ。

学生時代のディランはフォークシンガーのウディ・ガスリーに衝撃を受け、フォークに没頭するようになる。その熱中ぶりは凄まじく、ディランは食事・服装・人間関係の全てを「ウディ・ガスリーならこうするはず」と考えて行動したという[2]。

そして1960年、ガスリーに会うため単身ニューヨークへ渡り、その地で少しずつ音楽キャリアを積んでいく。それがプロデューサーの目に留まり、62年にファーストアルバム『ボブ・ディラン』を発売をもってデビューを果たした。

ちなみに筆者が好きなエピソードは、「(ボブ・ディランという芸名は)考える前に、自動的に出てきた」と格好良く語る割に、実は名前候補をいくつか用意したうえで発音の響きを熟考して決定していた、というものである。こういう人なのだ。

ファーストアルバムの発売後、ディランは黒人ブルースギタリストであるロバート・ジョンソンの音源を聴いて刺激を受け、歌詞の分析に励んだ。ディランは当時を「あのときロバートジョンソンを聞かなければ、大量の詩が私の中に閉じ込められたままだった」と振り返る[同上]。

もともと民謡であったフォークを世に知らしめ、かつガスリーやジョンソンら先人の研究家であったという側面が、「偉大な米国の歌の伝統に~」の該当部分だといえるかもしれない。では、新たな詩的表現とは?

フォークソングにはトピカルソングと呼ばれる曲群がある。フォークシンガーが日々新聞記事を読み、社会問題や事件を取り上げ、物語仕立ての歌詞としてフォークソングの節に当てはめて歌うものである。

湯浅学はトピカルソングを河内音頭の新聞詠みに似ていると指摘したが、ディランと古代ギリシャ抒情詩、そして河内音頭というリンクは非常に興味深いものだろう。筆者の個人的研究の話になるが、かつて日本で起きたフォークソングと全共闘・ベ平連の結合にも、「フォーク替え歌」は重要なアイテムであった。フォークと社会問題、替え歌は切り離せない文化だと言える

一方でディランは「トピカルソングは作らない。その言葉も好きじゃない。フォークには古い歌を作り替えていく手法がある。俺はその方法にのっとって曲作りしただけだ」と語っていた[3]。

事実、ディランは当時のフォークシンガーとしては珍しく作詞作曲を積極的に行い、 ミシシッピ州の黒人青年殺人事件を題材にした「ザ・デス・オブ・エメット・ティル」や冷戦体制への強迫観念を歌にした「レット・ミー・ダイ・イン・マイ・フットステップス」等のオリジナル楽曲を作っていた。

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人の空虚さは風に吹かれて舞う

ディランはセカンドアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』でその地位を確立した。キャリアを通しての代表曲となった「風に吹かれて」では、多くの疑問が歌われる。

どれだけ道を歩けばいいのか?一人前の男と呼ばれるまでに。いくつの海を白い鳩は渡らなければならないのか?砂浜で安らぐまでに。何回砲弾が飛ばねばならないのか?武器が永久に禁じられるまでに。その答えは、友よ、風に舞っている。答えは風に舞っている

その後も、「何年あの民はあのままなのか?自由を許されるまでに」「何人死ねば、あまりに多くの人が死にすぎたと分かるのか?」と羅列は続く。

ディランはそれら全てに対して、”The answer is blowin’ in the wind”と答える。社会への攻撃ではなく、自らを含む人間の虚無感・やるせなさを描く一方で、それでも問い続けることの人間らしさをも説く、素晴らしい詩だ。

ちなみに、ディランはトピカルソングが嫌いだと発言したが、「風に吹かれて」はスピリチュアルソング「ノー・モア・オークション・ブロック」のメロディを下敷きにしている。

時はケネディ政権、いわゆるキューバ危機のさなか、ディランは「激しい雨が降る」という曲を作った。「雨」は核爆発による放射性物質のことだろう、と人々は考えた。しかしディランはこれを否定し、「マスメディアを通じてまきちらされ、人々の頭から思考を奪っていく虚構こそが毒物だ」と語った。天邪鬼な彼のマスメディア嫌いはしばしば窺い知れる。

『フリーホイーリン』にはこれらの他にも、武器商人と政治家を批判した「戦争の親玉」、「第三次世界大戦を語るブルース」をはじめ社会への攻撃性を秘めた曲が多く収められた。アルバムは全米22位を記録し前作を大きく上回るとともに、ディランは社会派ミュージシャンとして認知されることになった。もっとも、ディラン本人は「社会派」「反体制」として宣伝されることをひどく嫌い、ことあるごとにマスコミを馬鹿にしていたのだが。

転がる石のように変化する「社会派フォークシンガー」

次いで1964年に発売された『時代は変わる』は、アルバムジャケットからしてシリアスな雰囲気が漂っている。そこにはマネージャーであるアルバート・グロスマンが意図的に「カリスマ社会派フォークシンガー」という文句を植え付けていたことも大いに影響しているだろう。

ディランは『時代は変わる』について、「時代の精神を伝えたかった。もてる知識を総動員し、それを歌に昇華させようとした」と語る。収録曲を見ると、「哀しい別れ」では「でたらめな時計が私の時を刻もうとし 裏切り辱め困らせる空虚なゴシップが私の顔に当たり噂の埃が私を覆う」と再度マスコミ批判を展開しているほか、反戦歌「神が味方」をはじめ暗い空気がアルバム全体を覆っている。また、いくつかのトピカルソングの傑作も収められているところも(意地悪い筆者としては)見逃せない。

同じ頃、ビートルズの活躍ぶりがアメリカにも届く。彼自身もロックへ回帰し、フォークギターをエレキギターに持ち替えた。次作『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』は社会的なメッセージが影を潜め、自身の恋愛をモチーフにしたラブソングを中心に構成されている。そして、ビートルズ・ストーンズ・ウォーホルらが米国を揺らすポップカルチャーの時代に、ディランも突入した。

65年に完成したディラン最大のヒット曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、高慢さのため全てを失い路上生活を送る女性に対して「気分はどうだい?(How does it feel?)」と繰り返す、皮肉な曲だ。音楽的には変化しているが、内容には「風に吹かれて」との関連を感じられる。絶望を前にした人間の諦めのようでありながら、奥深くに乾いた肯定も覗かせているのだ。

トピカルソングでもなく、体制への批判でもなく、ラブソングでもない。こうしたディランの「語り」こそが、「新たな詩的表現」であると筆者は考える。

それにしても、ディランという人間は実に奇特で面白い。筆者は今年4月、『アナザー・サイド』発売後のディランを追ったドキュメンタリー映画『ドント・ルック・バック』の35mm上映へ足を運んだが、そこで見られるディランの姿は可笑しいほどに変人(良く言えばアヴァンギャルドな芸術家)であった。

メディアからの取材には嘘ばかり並べる。機嫌が悪いときには誰構わず悪態をつく。些細な言い争いを宥めているうちに自分がブチギレ始める。そんな23歳の若者が、50年後にノーベル賞を取ろうとは、確かに驚くべきことかもしれない。

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授賞式、「行けたら行く」けど「先約あったわ~」

ノーベル賞を受賞したディランは、暫くの間それについて沈黙を貫いたことでも話題を呼んだ。遂に口を開いたディランは、「(授賞式は)行けたら行くよ」と、飲み会をやんわりと断るかのようなコメントを出した。そして筆者がこの記事を執筆している11月17日、「ディラン授賞式欠席!」のニュースが目に飛び込んできた。理由は「先約があるため」。行けたら行きたかったけど、先約があった。これはデートを断る女子大学生そのものである。オチが完璧すぎる。

授賞式と言えば、筆者はとある出来事を思い出す[4]。

『フリーホイーリン』が大ヒットを記録した1963年、緊急市民自由会議(ECLC)は「市民の自由獲得の闘いに多大な貢献が認められた人物」にディランを選んだ。しかし授賞式直前、ディランは緊張のあまり飲酒したことで泥酔し、次のようなスピーチをした。

頭の毛が薄い年寄りは道を譲るべきだ。私を取り込もうとする人たちには髪の毛がない。とても不愉快だ。~(中略)~ 私は左翼の手下ではなく、独立独歩の吟遊詩人である。芸をするアザラシではない

髪の毛の話はいかなる時もタブーであるが、吟遊詩人ディランにそんなことは関係ないのである。と茶化すまでもなく、ECLCを前にして放った「私は左翼の手下ではない」発言の衝撃は想像に難くないだろう。さらに彼は続けて、

私の中には、ケネディ大統領を撃ったオズワルドと共通するものがある。私があのようなことをするとは思わないが、彼が感じていたことは私も感じていると思う

と話した。当然ながら場内は騒然とし、ディランは顰蹙を買うことになった。賞を辞退すればよかったものを、わざわざ授賞式に出向いてこんなスピーチをしたディランである。今回はどうなるのか?と非常に楽しみにしていたところだが、いや~先約があるならしょうがないな。

大学生ならば、誘いを断ったことなどすっかり忘れて「今日暇だわ。だれか本郷で飯でも食べない?」とツイートをして墓穴を掘るところであるが、無論ディランはツイッター個人アカウントなど持っていない。

代わりに、今後半年以内に行われるはずの記念講演でどんな爆弾をしかけてくれるのか、期待しようではないか。

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[1] CNN, 2016.10.13『ノーベル文学賞にボブ・ディラン氏、「新たな詩的表現を創造』http://www.cnn.co.jp/world/35090507.html

[2] ボブ・ディラン, 菅野ヘッケル訳, 2005, 『ボブ・ディラン自伝』, ソフトバンクパブリッシング

[3] Rolling Stone, 2010, 『完全保存版 ボブ・ディラン全年代インタビュー集』, インフォレスト

[4] 湯浅学, 2013, 『ボブ・ディラン ロックの精霊』, 岩波書店

この記事を書いた人
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横田 伸治
はじめまして! 横田 伸治です。UmeeTのライターをやっています。よろしければ私の書いた記事を読んでいってください!
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