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映画『君の名は。』が、東大生の心を掴んだ理由とは。【レビューコラム】

2016.10.15

映画『君の名は。』

ジブリ作品以外のアニメ作品で初の興行収入100億円を突破する、7週連続動員ランキング1位など何かと話題に尽きない作品となっています。

それだけヒットしているんだからきっと何かと語ることがあるに違いありません。というわけで今回は『シン・ゴジラ』に引き続き、『君の名は。』レビュー企画です!

いただいた寄稿の中からいくつかピックアップしてお届けします。

※以下映画のネタバレを含みますので、ご注意ください!

<災害と物語>について

『君の名は。』で流した涙はラストでの数粒。私にとってこの作品は、じんわりとした良さを持ったものであった。

さて、ここでは<災害と物語>について見てみようと思う。古今東西、災害にまつわる物語は紡ぎ出されてきた。『君の名は。』で瀧と三葉が入れ替わったのも、彗星の落下が関わっている。

実際の災害ではないものの、二人の関係はそれ無しには語れないのであり、そこから生まれる「糸」「組紐」「結び」「絆」の物語は間違いなく東日本大震災の記憶を引きずり出し、多くの観客の胸を打った。

災害がもたらすものは物質的な意味での破壊や復興だけではない。精神面では生死、時間、人間に対する考え方にも大きな影響を与え、物語の契機という顔も持ち合わせている。ただ、言語化が難しいこともあり、それは直後というよりはしばらく経ってから語られる傾向にある。『君の名は。』もその系譜に加えられるだろう。

災害をどう振り返り、向き合い、未来に進むのか。物語を通して考えるのも興味深いと再認識した次第だった。

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君の名を楽しめなかった人へ

映画「君の名は。」のエンドロールをぼーっと見つめながら思ったのは、「なんか違うな」だった。以下はわたしの個人的な感想になるので、どうか君の名は。絶賛派の方たちは読まないでいただきたい。

「君の名は。」は、綺麗すぎた

空も、人間も、ストーリーも。

あまりに綺麗だったので、何もわたしの心に刺さることなく、すべてが流れて行ってしまった。作中で起きた奇跡は美しかったが、しかしうまく行き過ぎていたように思われた。

瀧がある場所を訪ねたことで、不可能だったはずの三葉との入れ替わりができてしまい、そして三葉の必死の説得により友人たちや長年わだかまりのあった父親でさえ彼女の意思に従ってしまった。

奇跡とは、あんなに簡単になされるものなのか。

あらゆる手を打ちつくし、絶望し、どうしようもなく目の前が真っ暗になる。そんな時に起こるからこそ、奇跡に心動かされる。

作中において、奇跡が起こるには、あまりにも障害が少なすぎた。

登場人物は誰しも聞き分けの良い「綺麗な」人々で、奇跡も、何の犠牲もなく得ることができた傷一つない「綺麗な」奇跡だった。現実の残酷さは一欠けらもなく、感情移入のしづらい「完璧」なハッピーエンド。だからこそ、わたしにはつまらなく思われた。

かの奇跡の起こる過程で、何かしらの犠牲が生まれていれば。もし、最後二人が出会えなければ。

チクリと切ない痛みが、映画を見終わった後も尾を引いていただろうに。

「君の名は。=夢」説

私は『君の名は。』のレビューを書くことができない。

なぜなら覚えていないからだ。

私はこの作品を観てたしかに感動したはずなのだ。風景は美しかったし、二人の運命にどきどきした。観終わったときには良い映画だなあという感慨があったのを覚えている。 しかし、それはすぐに失われてしまった。

印象的な台詞やシーンははっきりと思い出せる。ストーリーも忘れたりしていない。でも感想を求められると何も言えなくなるのだ。

あれ、何が良かったのだろう?私は何に感動したのだろう?

ストレートな物語は私が普段あまり好まないものだったし、特に惚れた登場人物もいなかった。ただ「良かった」という感慨があったはずなのだが、それすら今になると怪しい。

まさに夢である。

夢は映画の中で重要な役割を果たす。三葉と滝を繋ぐのは夢であり、それは心の奥底に根ざしながら目覚めれば失われてしまうものである。

『君の名は。』はリピーターも多いと聞くが、何度も観に行く人の気持ちはとてもよく分かる。

「忘れちゃだめ」なもの、「忘れたくない」ものを映画の中に置いてきてしまったような気分になる。映画を観ているときにだけ得られる手触りを何度でも確かめたくなる。

私には『君の名は。』という映画自体が夢であるように感ぜられるのである。

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「君の名は。」 -ヒットの法則とジレンマー

興行収入が130億を突破し、映画史に残る大作となった「君の名は。」だが、果たして全員が幸せか。

まず、ヒットには一定の法則がある。

そしてそれは、ジブリがもののけ姫(193億)、千と千尋の神隠し(304億)でとった戦法なのだ。それに不可欠な要素は「宣伝」と「配給」である、ただいい映画を作れば売れるのではない。宣伝は興行収入に直結する。

どれだけ消費者の目に映画の広告を見せられるかが勝負だ。

今作は、JR東日本、サントリーなどの企業やRADWIMPSとコラボし、映画公開期間にイベントを多く打ち出していた。

そして配給である。東宝は前作23館の新海誠作品に、300館の映画館を割り振った。なぜか。

おそらくだが、新海誠監督のみが脚本に関わっていれば、三葉は町を救い亡くなっていたと思う。そして「英雄」として称えられた彼女を、たきがニュースでチラ見するのがラストシーンだったかもしれない。

しかし今作の脚本には、東宝と敏腕プロデューサー川村元気がついている。過去作でみせてきた新海ワールドをボッコボコに「矯正」し、「ヒットする作品」に作り上げたのだ。

まずストーリーをRADの歌に沿う形にし、「頭で考えないMusic Videoと揶揄されるほどに老若男女が見やすい内容とし、アニメーターをジブリから引っ張り、

まさに無敵といえる布陣で公開へ踏み切ったのである。これで売れないわけがない。

「利益出たし問題ないのでは?」と思うかもしれないが、困る者もいる。監督である。

当然、次回作はこれを超えてくると大衆は期待する、しかし、「新海誠の世界観」でこれ以上の数字を叩き出すのは不可能に近い。(彼の前作は1.5億)

しかし、売るためには宣伝を多く打たねばならず、宣伝を打ったからにはその莫大な費用に見合う作品を作らなければならない。

作家性を捨て、大衆に売れる作品を作るのか、利益を無視し、己の世界観で勝負するのか、究極のジレンマだ

新海誠は決して大衆迎合していない

「君の名は。」の大ヒットを受けて、「新海誠はこれまでの作風を捨てた、大衆迎合した」という主張が多くみられるが、果たしてそうだろうか?

自分の立場を説明しておくと、僕は新海誠の大ファンだ。

2年前に初めて「秒速5センチメートル」を観て、その独特な世界観の虜となって以来、彼の監督作品は全てチェックしている。(といっても6作品しかないが)

その「新海誠のこれまでの作風」を享受してきた立場からすると、

新海誠は変化したのではなく、進化した

と思っている。

それでは、どこが今までの作品よりも進化しているのかを見ていこう。

①主人公たちが孤独じゃない

これまでの作品の主人公・ヒロインは孤独だった。

新海作品の特徴としてよくあげられる「モノローグの多さ」はその象徴で、主人公たちは自分の世界に閉じこもり、自分の思いを外部に発信することはなかった。

物語のほとんどが主人公・ヒロインの2人だけで進行し、それ以外の登場人物はほとんど蚊帳の外だった。

では、主人公とヒロインの間は心を通わせているかというと、そういうわけでもない

彼らはいつも、距離に引き裂かれ、届かないメールを打ち、送る宛のない手紙を書き、同じものを見ているつもりで、違うものを見ている。

新海作品の主人公・ヒロインは、徹底的に孤独であるのが特徴だった。

しかし、「君の名は。」における主人公たちの周りには、奥寺先輩や勅使河原という魅力的なキャラクターがおり、彼らと思いを共有し協力し合うことで、作品世界が大きく広がっている

この進化には2つの要因があげられる。

1つ目、環境の変化

登場人物の少なさは、新海誠の作家性に起因するものではなく、単にスタッフの数が少なく、多くの登場人物を動かせなかったという要因の方が大きかった、ということをSENSORSのインタビューで語っている。

僕は『言の葉の庭』もエンターテインメントのつもりで作っていたし、その前の作品も力が及ぶ範囲でエンタメにしたいという気持ちで作ってはいたんですけど、でも何か足りないという感覚はもちろんあったんですね。

個人制作から入ってきたというのもありますし、特に初期の頃はスタッフもあまり多くなかったので、意図的に話というか登場人物の数も少なくして、自分自身の能力と手持ちの環境も限定している中でベストなものを作ろうとやってきたんですけど、「やりたいこと」に追いついていないという感覚はずっとありました

(中略)

中身によって器が決まるのではなくて、むしろ器の形が決まることで中身が規定されることの方が実際多いと思います。

僕は個人制作から始めたということがミニマムな物語を作りがちだったということに直結していると思いますし、一人で作るということは手間を最小限にしなければいけないから「君」と「僕」のような1対1の世界の物語とどうしても繋がっているのでしょう

SENSORSインタビューより

これまでの作品で、新海誠は「やりたいことができていなかった」だけであって、大衆迎合のために「自分のやりたいことをあきらめた」わけでは決してないことが分かる。

モノローグが多い「新海誠独自の作風」は、彼自身やむを得ずやっていたことで、それを「作風を捻じ曲げた」と批判するのは、おかしいのだ。

2つ目、物語創作能力の向上。

前作「言の葉の庭」の小説版の連載で、主人公・ヒロイン以外のキャラクターに焦点を当てたストーリーを作ったことで、物語づくりの能力が向上したことを、監督自身がインタビューの中で語っている。

簡単に言うと、『言の葉の庭』と『君の名は。』の間にした色々な仕事からの連続性です。

それは例えば、大成建設やZ会のCMなどですが、なかでも本作をつくるうえで最も大きかったのが、『ダ・ヴィンチ』(KADOKAWA)での小説版『言の葉の庭』の連載です。

およそ8カ月、オムニバス形式の連載だったので、ひと月ごとに物語を完結させる。それらは今思えば、物語づくりのトレーニングとして、『君の名は。』につながっています。1話を書くにあたって、数冊の本を読んだり、数人の人に会って、話を聞いたりしていて、創作に関わる一連の活動で得た手応えや手つきを使ったという意味で、『君の名は。』にも連続性を感じますね。

KAI-YOUインタビューより

以上からわかるように、新海誠というのはまだまだ発展途上の映画監督・脚本家であり、「君の名は。」で大衆に迎合するために作風をねじ曲げたのではなく、今まで出来なかったことが出来るようになった、単に環境が改善され、進化した・成長しただけだと言える。

②ハッピーエンド

「大衆迎合」論者の多くがその論拠とするのは、「運命で結ばれた男女が出会う」という完全なハッピーエンドであることだろう。

なぜハッピーエンドであることが問題かというと、これまでの新海作品では完全なハッピーエンドは無く、「運命の人なんていないし、いたとしても結ばれることはない」、「思いが届かないことへの諦めを抱えて、それでも生きていく」、「青春時代の瑞々しい思いが永続することはない」などの今回とは真逆のテーマを持っていたからだ。

こういうニヒルな世界観が一部のファンの間で熱狂的に支持されていたにもかかわらず、今回は完全に翻し、運命の出会いを全面的に許容した

これは大衆迎合のための作風捻じ曲げであり、古参ファンへの裏切りだ、というのが彼らの主張だ。

裏切られたとされる古参ファンの一人として、反論が2つある。

1つ目、震災の影響

この結末・テーマの変化の裏には、大衆迎合なんかよりも深い理由があることを監督自身が語っている。

長くなるが、大事な言葉が多く含まれているので、ノーカットで引用する。

おっしゃる通り、確かにこれまでは届かないことへの諦念、あきらめみたいなものを抱えて、それでも生きていく姿を描いていました。

これも『言の葉の庭』から変わってきていますが、『君の名は。』では、ある意味、奇跡が起こる物語にしようと思ったんです

東宝で300館規模だから、とかではなく、なにかしらの願いの物語にしたいという気持ちがありました。震災以降、大きな事件や災害があった中で、いろんな人が願ったり祈ったりした気がします。「こうじゃなかったらよかったのに」とか「こうすればよかった」と。

2010年代は、そういう、社会全体が強い願いや祈りに支配された時間が何度かありました。現実で実際に叶ったもの、叶わなかったものがあったと思いますが、フィクションでは、そこに希望を込めた物語を描きたかったんです

例えば『秒速5センチメートル』をつくったときは、そういう感覚がなかったんだと思います。強い願いや祈りみたいなものを持っている人は個々にはいたんだろうけど、社会全体としては持っていなかったと思うんです。みんなが実際に体験したことだからこそ、絵空事ではない、もう少し生の感覚として描けると思って、今回のような結末を描けたんだと思います。

KAI-YOUインタビューより

同インタビュー中で語られていることだが、村上春樹がオウム真理教事件を経て、作風が変わっていたように、新海誠も震災を経て変わったのだろう。

余談だが、新海誠に限らず、震災後の我々はもう以前とは違うと思う。彗星が落ちた後の街を見ても、あまり違和感を感じない自分に気づいたのではないだろうか。

2つ目、これは個人的な意見になるが、古参ファンは裏切られたどころか、救われたと思っている。

ラストのシーン、1度はすれ違い声をかけることなく去ろうとする瀧と三葉を見た時、「秒速5センチメートル」の有名なラストシーンがリフレインした方が多いだろう。実際、監督も意図的にやっていると思う。

しかし「君の名は。」の瀧と三葉は振り返る。

その瞬間、「秒速5センチメートル」の、「雲の向こう、約束の場所」の、「言の葉の庭」の、「ほしのこえ」の全ての救われなかった主人公・ヒロインたちが救われたような気がした。

まあ、これは本当に個人的な意見というか感想なので、あまり共感を得られないかもしれない。

以上の理由から、新海誠は大衆迎合のために作風を捻じ曲げたのではなく、環境が改善し、監督・脚本家としてスキルアップしたことで、自分が本当にやりたいことをできるようになったのだ。次回作は「君の名は。」を超えるヒットになるかは断定できないが、さらに進化した作品になることは間違いないだろう。

僕のレビューは、過去作品を見たことのない方はにとっては、あまりピンと来なかったかもしれない。

「君の名は。」を観て、新海誠が気になった!という方は、ぜひ過去作品も観てみてほしい。

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『君の名は。』をもう一度

「震災の直後というよりはしばらく経ってから語られる傾向にある。」(<災害と物語>について)

この文章、印象に残りました。福島第一原発の事故をモデルにしてると言われる『シン・ゴジラ』が、『君の名は。』とほぼ同時期にヒットしたのも無関係でないのかもしれませんね。

みなさんもレビューいかがでしたでしょうか。レビューを見て、もう一度『君の名は。』を見に行ってはいかがですか?

興味深いレビューをたくさんいただき、ありがとうございました。これからも引き続きレビュー企画お送りしていきますので是非よろしくお願いします。

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KZ
はじめまして! KZです。UmeeTのライターをやっています。よろしければ私の書いた記事を読んでいってください!
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