あらゆる意味を破壊しつくすラディカルな芸術運動として、1916年、ダダはスイス・チューリヒにて産声を上げた。その100周年を記念して、スイス大使館の主催で「ダダイズム100周年アートコンペティション」が開催されており、その優勝争いは佳境を迎えている。
東大生3人によるユニット「つらつら」と、九州ファシスト党から後援を受けるアーティスト・織田曜一郎が、火花を散らしているようだ。
あろうことか、優勝作品はなんとFacebook上の人気投票によって決定されるという。
貴君の狂気とユーモアが、ここに試されている。
当コンペにおいて、東大生ユニット「つらつら」のエントリー作品は現時点で二番手を走っている(作品へのリンクは本文ラストにも)。
歯ブラシで磨り潰される豆腐、排水溝に流れ込む生卵、ヒステリックな叫び声。
狂気に満ちたこの映像の真髄は、その作品の構造においてコンペそのものを無効化し、笑いものにし、解体する点にある。
「つらつら」が猛追するのが、政治活動家・外山恒一の後援を受けるアーティスト、織田曜一郎の作品だ。
現在のところ、トップの織田曜一郎が「つらつら」をかなり引き離しているのだが、実際に2つの映像を見比べてみて順位に首を傾げる方も多いだろう。九州ファシスト党・外山恒一の街宣風景をただ撮影して繋ぎ合わせたのが、織田曜一郎の「作品」ということになっている(織田曜一郎作品へのリンクも、本記事ラストに改めて)。
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Facebook上の「いいね」の数で優勝作品を決定しようとするこのコンペにおいて、著名人の宣伝を受けた作品が無名の学生の作品を凌ぐのは至極当然だ。
仮に織田曜一郎の作品がこのまま首位を独走した場合、コンペは進退窮まることになる。
というのも、人気投票に従ってこの作品を表彰した場合、知名度頼みの強度のない作品を認めることになり、コンペはコンペとしての機能を停止する。
他方で、反体制的な活動家である外山恒一を写した作品を、政治的な理由で審査対象から外したならば、コンペは自己検閲の謗りを免れえない。ダダのラディカリズム(急進主義)は愚弄され、コンペの正当性は自ら否定される。
コンペのこの混迷した窮状は、「つらつら」の優勝によって解決を見るのである。
あなたが「つらつら」作品の再生ボタンをクリックすると、映像はいきなり、ダダアートコンペティションで「つらつら」が優勝する場面から始まる。そう、「つらつら」は優勝することが運命づけられている。あなたが「いいね」をつい押してしまうことも運命づけられているのである。
真のダダたるこの作品はしかし、コンペ優勝とともにその破壊的な作用を発動し、ダダ生誕の地である「チューリッヒ」の文字列を、この世界からひとつ残らず消滅させてしまう。文字が、意味が、解体していくのだ。チューリッヒの文字列を乗せた豆腐や卵が無感情に潰される。ダダの創始者、トリスタン・ツァラの肖像もまた冒涜され、見事な父殺しに合う。
そして世界の意味がひとつひとつ打ち壊されていった暁には、コンペティションそのものが消滅してしまう――この当の作品がすでに優勝を収めたはずのコンペティションが。
出品するコンペティションですでに優勝している作品。
すでに優勝したはずのコンペティションを中止させてしまう作品。
この作品の内部、いや出品という行為の遂行性の周囲では、出品/優勝、優勝/中止という異なる時間性がメビウスの輪のように相互貫入し、その出口のない循環の向こうで、このダダという致死的な毒を仕掛けた「つらつら」の嘲笑が無音のまま響き渡っているかのようだ。
「つらつら」が今後猛烈な追い上げを見せることは、既に「つらつら」のこの破壊的な作品において決定づけられている。そして最終的には「いいね」の獲得数において織田曜一郎のそれを上回り、コンペティションは「つらつら」を表彰することによって、その毒による解体を受けながらも、ダダイズムの本来的な姿勢に賛意を示すことが晴れて可能になるのである。
そういうわけで、ダダイズムの精神に則ってコンペの簒奪を図るため、「つらつら」作品に「いいね!」してみてはいかがだろうか?
コンペティションを救済し、茶番の顛末を笑って見届けてみようではないか。
「つらつら」への「いいね!」はこちらのページから!!!
そして織田曜一郎のエントリー作品はこちらから。