勇者の剣が抜けない~東大ブルゾン制作に至った東大生の葛藤~

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東大生であることを誇れない君に。

東大カレッジブルゾン制作プロジェクト

 

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この写真と見出しに見覚えのある人は多いのではなかろうか。
 
2017年3月7日。
現役東大生2名が、東京コレクションに参加しているファッションデザイナー、「KEISUKEYOSHIDA」を迎え、新しい東京大学のファッションアイコンになるようなカレッジブルゾンの制作を企画した。
 
現在、ネットで賛否両論を呼んでいる東大ブルゾンは一着2万円から。この企画はリリースから2日足らずで既に20名以上の支援を受けている(2017年3月9日18時現在)。
 
 
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この東大カレッジブルゾン企画の発起人である現役東大生・菅原優祐氏がリリースに際し、そこに至るまでの葛藤をコラムとして寄稿してくれた。
 
 
 (※東大ブルゾンの製作経緯のみをご覧になりたい方はページ下部からP2へお進みください。)
 
 
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菅原優祐

 

☞学生証

  1. お名前:菅原優祐さん
  2. 所属:東京大学文学部思想文化学科インド哲学仏教専修
  3. 学年:4月より3年(一年次に留年を経験)
  4. 備考:”yossi 2 the future”こと鎌田頼人氏と共に東大カレッジブルゾン企画を発起。
 
 

 
 
東大生という言葉を聞いて皆さんはどんな人物像を思い描くだろうか。
東京大学の学生ということ以外に思うことはたくさんあると思うが、きっと皆さんが思っている東大生像と実際の東大生たちは少し違っていると思う。
 
 
ちょうど3年前の3月10日、僕は東京大学に受かってしまった。
 やはり強者どもと共通の基準で競り勝つのは面白いわけで、webで自分の番号を見たときは意図せず口角が上がったし、社会というか世間というか、そんな大層なものではないのだけれど、それに似た何かに認められたような気がして思いの外嬉しいものであった。それでも僕は『受かってしまった』と感じていた。
 
僕にそう感じさせたのは、僕の中学高校時代の痛烈な経験であり、それは今回東大ブルゾンの製作に至った根源的な理由の一つでもあった。
 

代替可能な自分

 
僕は中学高校時代を神奈川の栄光学園で過ごした。
 中学時代はただ自宅のパソコンがウイルスに感染しやすいだけの砂利っ子だったのだが、そんな僕が学生時代に本気で熱中するものが一つだけあった。学校の文化祭である。
 
私立中高一貫の男子校の文化祭には私立の女子校や付近の高校から女学生が訪れるのである。当時の僕には、彼女たちが何のために男ばかりの学校の文化祭に来るのかなど滅法見当もつかないものであったが、そんなことは二の次であった。
 
女子学生と触れ合えるその一点において僕にとって高校の文化祭はこの上ないイベントであったし、愛しのあの子に白球を投げられる文化祭の実行委員は羨望の対象の他無かったのである。
 
 
一切の迷いなく初めて運営側に関わったのは中学3年の頃である。(僕の学校では中学3年からしか運営に携われないという規則があった)
 
我々実行委員は僅か2日間のために、莫大な時間をかけて当日に向けての準備に勤しむのであるが、志を同じくする仲間たちと過ごす時間はこの上なく心地よく充実していて、それはいざ文化祭の当日を迎えても、念願の女子学生には目もくれず文化祭の運営や進行ばかりに気が回ってしまうほどであった。
 
なんとも愚かな少年だと思うことなかれ、この頃には既に僕は心底文化祭に魅了されてしまっていたのである。
 
 
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僕の中での文化祭イメージ

  
 
文化祭に対する変わらぬ愛情を抱き続けた僕は、高校2年の時に念願であった実行委員長という役職に収まった。この文化祭の実行委員長というポストが良くも悪くも自分にとって重大な意味を持つこととなる。
 
今思えば高校の文化祭は高校の文化祭に過ぎないのであるが、就任当時の僕は宛ら僕の全人生を懸けているかのような気持ちの入れようであった。
 
この手で文化祭を最高のものにしてやるという気持ちしかなかった。優秀な自分の部下(もちろん同学年なのだが)を取りまとめ、然るべき方向へと平静と情熱を保ちながら彼らを導くのが僕の仕事であると自負していたし、それは当然困難を極めるものと予期していた。
 
 
しかしながら、蓋を開けてみれば拍子抜けなもので、僕と一緒に文化祭の運営に携わる人間は、すでに2年間の経験を積み良き先輩方からノウハウを集積していたし、自ら率先して携わろうという彼らが有能でないはずがなかった。
僕の仕事といえば、会議の司会進行や全校生徒への挨拶等を除けば、学生と教員の時に対立する意見のすり合わせ程度であったが、それでも自分が仲間の運営を助けているということを実感しながら毎日を過ごせていた。
 
 
だがある日、教員から何かとてつもなく精神を削られる一言を(当時の自分が感じたことである)浴びせられたのを境に、目に物を見せてやろうという反骨心が湧き上がり数日間自分の仕事をさぼってみることにした。
 
なんともエゴイスティックな考え方であったが、自分がいないことで増える仕事に慌てふためく教員や仲間に自分という存在を求めて欲しかったのであろう。
 
数日後に自分が仕事場に戻った時の光景を自分は想像だにしていなかった。
 
自分がいない間にも物事は平然と進んで行き、仲間や教員には優しい言葉をかけられ、心なしか実行委員室が綺麗になっている気すらした。
 
自分の周りにいる人は皆自分を必要としているのだという17年間をかけて培った自尊心が音もなく砕け散り、それと同時に自分の自尊心の存在を知った。
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ぽっかりと空いた隙間には綺麗に『代替可能な自分』という感覚が収まって、そこから先は酷かった。
 
今ではあれがidentity crisisだったんだななんて澄ました顔で言えるけれど、当時の僕にとっては大問題なんて言葉で言い表せるはずもなく、朝家を出たら学校に行かずあてもなく公園をぐるぐる歩き回ったり、学校から帰っても気づいたら当たりが暗くなるまで歩いていたりした。 
誰と話しても『自分である必要性』を感じることができず退屈だったし悲しかった。冗談抜きで神に縋ろうとしたことすらあった。
  
 
そんな日々を送っているとあっという間に時が過ぎて、文化祭の当日を迎えた。
 
本当に素晴らしい文化祭だった。僕は心の底で無力感を抑えられなかったけれど。
後日ベテランの先生に今までの文化祭の中で一番良かったと称賛されたのがただ苦しかった。素直に喜べないのではなくて喜ぶ資格がないと思っていた。
 
 
文化祭に携わったことで、自分がいなくても世界が周っていることを痛いくらいに感じさせられ、それからは自分の必要性の如何を自問自答する日々が始まった。 
 
 
 
 
 

勉強をするより他になかった人間

 
高校生の僕たちには文化祭が終わると受験勉強の波が押し寄せる。この時ほど時の流れの無情さを感じることはなかった。
 
僕の高校は一応は神奈川の進学校で、全校生徒の1/4くらいは東大に進学する。中一の頃から成績表に赤線がたくさん引いてあった僕も自然と勉強をするようになったが、受験勉強とは実に苦しいもので、やれどもやれども達成感よりも劣等感が付き纏うのである。
 
 
こんなに苦しいものだとは思わなんだ、僕は受験勉強からの離脱を図った。
 
どうにかして勉強以外の方法で人生の活路を見出したかった。運動神経には秀でたものがないので芸術に逃げようとしたが、絵を描くのだって学校で成績が良いくらいのものだし、バンドを組んでいたけれど自分の歌はヘタクソだって分かってた。
 
結局どれも決定力に欠けて、詰まるところ自分が他の人より秀でてることを考えたら勉強が少し上手いことだと、思考が綺麗に宙返りを決めると、苦渋の思いで受験戦線に復帰した。
  
 
その頃はもう他人に拒絶されるのが怖くて仕方なかった。母親は僕に関してとやかく言う人ではなかったので、もっぱら僕を拒絶するのは赤いマーカーを握った見知らぬ誰かであった。それが嫌で嫌で勉強した。自分には才能がないので勉強するしかないのだと毎日痛感していた。
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人間の脳みそは自分の思っているより物事を記憶してくれて、勉強の成績は、かけた時間に綺麗に比例してくれた。それを積み重ねた結果、ちょうど3年前、東京大学に受かってしまった。
 
僕の中では東大に行きたいという特別な感情はなくて、勉強した人が入るところくらいの感覚だったので、合格した当初は確かにある程度の達成感と充足感を感じたが、それに続いたのは『勉強に時間を割いたのだ』という実感に過ぎなかった。それと同時に『勉強しか脳がなかった人』『勉強しか時間をかけてこなかった人』としての刻印を押された気がした。勉強をするより他なかった人間の集団に選ばれたのだと。
 
 
 
僕のこの感覚と周りの反応は全く違っていて温度差をすごく感じた。
 
頭脳明晰成績優秀東大生の称号をみんなが押し付けてくれるのだが、実のところが全くそれに釣り合っていないのである。
 
抜けない剣を押し付けられ周囲から勇者だと奉られたらどうであろうか。情けないことこの上ない。滑稽なことこの上ない。間違っても俺は伝説の剣を抜いた勇者だなんて言えるはずもないのである。
 
 
 
入学した後も『自分はすごいんだ』という雰囲気も居心地が悪いし、勉強できることを誇っている人が多くて、自分にはやっぱりこの大学は違うなという感じが常に拭えなかった。
 
社会を知りたいというよりは大学から逃げ出したくて、大学名を隠して人と話したり、東大生が一人もいないコミュニティに入ってみたり、大学が分からぬように見た目にも気を使ってみたりした。与えられた莫大な時間の使い方もわからなかったのでヒッチハイクやらインターンやらビジコンやらいろいろやってみたりもした。
 
全部それなりに楽しくて、それなりに満足できたけど、やっぱり何か違う気がしてた。そんなこんなで大学1年目はほとんど学校に行かずに終わった。
 
 
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北海道までヒッチハイクに行ったが無一文になりこのあと函館で野宿した。帰還が遅れて留年の原因になった。「お母さん、ごめん」

 
 
 
 
2回目の一年生をやってから東大の中にいても、不思議と気の合う友達がポツポツでき始めてきた。
 
類は友を呼ぶのか、友だから類なのか、そんな彼らは揃いも揃って留年生だった。似たような価値観の人に東大で出会うのは本当に不思議な感覚がしてすごく嬉しかった。
 
しかも彼らはみんな何か一芸に秀でていて、自分の興味のある分野を熱心に語りかけてきて、純粋に尊敬できたし一緒にいたいと思えるような奴らばかりだった。
 
この頃から少し東大を身近に感じ始めるようになったし、少しだけ自分が東大で良かったと思い始めてきた。
 
 
 

東大生がメディアで取り上げられてから

 
 
東大生たちの活躍の場はますます広がっていて、メディアへの露出が増えている。
 
出演者たちはバラエティ番組で面白おかしく扱われてお茶の間に笑いを届けていて、僕はこのこと自体は一視聴者として楽しんでいるのが、メディアの扱う『今時な東大生』のイメージ、あるいは格式高く由緒正しき『イカ東』のイメージの2つが余りに強すぎて、『東大生』を一緒くたに認識する人がすごく増えてしまった。
 
 
 
その頃から『東大生と名乗りたくない』と思う人が目に見えて増えた。僕自身もそうだった。
 
 
 
僕たちは、一度自分たちが東大生であることが露呈すると『東大生っぽくない』という賛美の言葉をかけてもらえることもあれば、『東大生の癖に』っていう極上の皮肉を味合わされることがあり、時にはその両方を有り難く頂戴することもある。
 
もちろん自分は東大生なんだが、『東大生』として扱われてしまうことが自分自身をなおざりにされているようで凄く虚しい。結局その場にいるのは自分自身である必要性はなくて、東大生という性質を持つ誰かなら代わりは務まるという現実を幾たびも突きつけられているようでならない。アメリカに行って道行く人全員にyellow monkeyとしか言われなかったら誰でも嫌でしょう。
 
 
 
次ページ:ブルゾン制作に至るまでの経緯、東大生が葛藤の先にたどり着いた結末とは。

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