ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞を考える。美しくて偏屈な吟遊詩人の魅力とは?【ノーベル賞Week①】

(画像はWikipediaから引用)
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2016年ノーベル文学賞の受賞者は米国ミュージシャンのボブ・ディランだった。このニュースは国内でも多くの話題を呼び、驚きや賞賛・批判、旧作のチャート入り、ベスト盤の発売・はてブ界隈のエントリー合戦に至るまで、昼夜ディラン旋風が巻き起こった。

ノーベル文学賞にコメントするにあたって厄介なのは、選考基準や過程が50年間秘匿されるという性質だ。果たしてディランの何が評価されたのかは推測するしかない。唯一の手掛かりは、授賞理由として述べられた「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」というセンテンスのみだ。

ちなみに、毎年「村上春樹、今年こそ受賞か?→またも落選」のニュースがあるが、50年間秘匿ルールがある以上、そもそも本当に村上春樹が候補者として選考対象になっているかどうかも分からないのである。言うなればアレは、本を売りたい・テレビに取材されたい新宿紀○國屋書店などによる、あたかもバレンタインデーのような季節イベントに過ぎないのだと言えよう。

音楽は文学か?

さて、印象深いのは「音楽が文学賞受賞なんてけしからん」という旨の意見である。とあるD婦人もこの意見を述べていた。彼女は、「文学というのは、何百ページもあって分厚いもの。非常に高貴な流れがあるもの」と発言した。無論、ノーベル文学賞初の受賞者はフランスの詩人プリュドムであり、このような意見は唾棄するべきものである。しかしここまで過激でなくとも、ウーン、音楽は文学なのか?という疑問は人々の中に生じうるものだろう。

文学(Literature)とは、文字によって文章が形成され、そこに芸術を生み出すものである。その中でも最も古い形式が「詩」であり、少なくとも西洋においては古代ギリシャの詩がその起源だといえる。ディランの歌は、古代ギリシャ詩、特に抒情詩との関連を幾度も論じられてきた。古代ギリシャの抒情詩とは「歌うように」伝えられる口述の詩であり、ディランの歌は「話しかけるように」歌う音楽である。さらに言うなら、抒情詩はリラと呼ばれる竪琴を伴奏として語られ、ディランはギターを携えて歌う。こう考えれば、「音楽は文学か?」という疑問が的外れなものであると分かる。

今回、アカデミーは「詩とは元来、書くものではなく声に出して伝えるものだった」という点に着目したのだろう。事実、 スウェーデン・アカデミーのサラ・ダニウス事務次官はディランについて、「英語話者の伝統の流れをくむ偉大な詩人」と称賛したうえで、「その作品は古代ギリシャの詩人であるホメロスやサッフォーにも匹敵する」と述べている[1]。

ノーベルの遺言とディラン

ノーベル文学賞の理念及び選考基準は、アルフレッド・ノーベルが遺言した「理想主義的傾向のもっとも注目すべき文学作品の著者に贈る」に基づいている。例外はあれど、基本的には作品単体ではなく作家の功績・キャリア全体が評価される。

ここでいう「理想主義的傾向」とはなにか?過去の受賞者に対する受賞理由から考えると、一言でいえば「道徳的」であることではないか。世界や社会(人間や自然、国家や民族、歴史)に対する洞察が深く、想像力に富んでいることが条件であると考えても大きく外れてはいないだろう。そして前述のとおり、今回ディランへ賞が贈られた理由は「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」というものだった。「偉大な米国の歌の伝統」、そして「新たな詩的表現」。どちらも具体的な表現ではなく、筆者としても非常に厄介であるが、ひとまず上記2つの要素を念頭に入れながら、ボブ・ディランという男が何者であり、何を表現してきたのかを次章以降で述べたい。

先人たちに憧れたひねくれ者

ディランのキャリアをすべて振り返ることは割愛するが、若きディランについては簡単に触れておこう。

後のボブ・ディランであるロバート・アレン・ジママンは1941年に生まれ、幼いころから音楽や詩に親しんだ。
学生時代のディランはフォークシンガーのウディ・ガスリーに衝撃を受け、フォークに没頭するようになる。その熱中ぶりは凄まじく、ディランは食事・服装・人間関係の全てを「ウディ・ガスリーならこうするはず」と考えて行動したという[2]。そして1960年、ガスリーに会うため単身ニューヨークへ渡り、その地で少しずつ音楽キャリアを積んでいく。それがプロデューサーの目に留まり、62年にファーストアルバム『ボブ・ディラン』を発売をもってデビューを果たした。

ちなみに筆者が好きなエピソードは、「(ボブ・ディランという芸名は)考える前に、自動的に出てきた」と格好良く語る割に、実は名前候補をいくつか用意したうえで発音の響きを熟考して決定していた、というものである。こういう人なのだ。

 

ファーストアルバムの発売後、ディランは黒人ブルースギタリストであるロバート・ジョンソンの音源を聴いて刺激を受け、歌詞の分析に励んだ。ディランは当時を「あのときロバートジョンソンを聞かなければ、大量の詩が私の中に閉じ込められたままだった」と振り返る[同上]。

もともと民謡であったフォークを世に知らしめ、かつガスリーやジョンソンら先人の研究家であったという側面が、「偉大な米国の歌の伝統に~」の該当部分だといえるかもしれない。では、新たな詩的表現とは?

フォークソングにはトピカルソングと呼ばれる曲群がある。フォークシンガーが日々新聞記事を読み、社会問題や事件を取り上げ、物語仕立ての歌詞としてフォークソングの節に当てはめて歌うものである。
湯浅学はトピカルソングを河内音頭の新聞詠みに似ていると指摘したが、ディランと古代ギリシャ抒情詩、そして河内音頭というリンクは非常に興味深いものだろう。筆者の個人的研究の話になるが、かつて日本で起きたフォークソングと全共闘・ベ平連の結合にも、「フォーク替え歌」は重要なアイテムであった。フォークと社会問題、替え歌は切り離せない文化だと言える

一方でディランは「トピカルソングは作らない。その言葉も好きじゃない。フォークには古い歌を作り替えていく手法がある。俺はその方法にのっとって曲作りしただけだ」と語っていた[3]。事実、ディランは当時のフォークシンガーとしては珍しく作詞作曲を積極的に行い、 ミシシッピ州の黒人青年殺人事件を題材にした「ザ・デス・オブ・エメット・ティル」や冷戦体制への強迫観念を歌にした「レット・ミー・ダイ・イン・マイ・フットステップス」等のオリジナル楽曲を作っていた。

→次ページ、フォークからロックへ。そして授賞式問題は?

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(画像はWikipediaから引用)

ABOUTこの記事をかいた人

横田 伸治

レコード・バイク・ファミレス・江古田・新宿。人類みな兄弟。

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